、芸術としての映画や芸術でない映画の区別も出て来るわけで、と云うのは映画は断じて文学や何かという偶然な先蹤芸術からの類推から独立しなければならないのであって、そのためには自分自身で何が芸術的[#「芸術的」に傍点]であるかを決定しなくてはならぬ。之は芸術であるかないか、こう決まることではなく、逆に、映画であるのかないか、こう決まる他ないことだ。
 ニュース映画の場合はルポルタージュ文学などと類推される恐れがある。映画芸術とそれから食み出した映画との関係を割合純粋に問題にするためには、だから一見明瞭な「映画芸術的映画ニュース」の関係を見るよりも、一見曖昧な「映画芸術対文化映画」の関係などを見た方がよかったわけだ。
 それ故、映画芸術という観念には二重の検閲を必要とする。第一は、映画は何よりもまず「芸術」であるという常識に導かれていはしないかという点。第二はその「芸術」なるものが映画以外の常識からステロタイプとして映画に持ち込まれたものではないかという点。前者については、問題は簡単なように見える。誰しも少し考えて見れば、映画が芸術だけでないことを知っているからだ。併し後者については、問題は依
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