[#「制限」に傍点]を感得するには手頃の材料なのだ。
 だが私は文化映画を問題にしようというのではない。映画芸術なるものの、映画全般から見ての制限について、まず注目したいからである。つまり世間では、映画と云えば何より映画の芸術を思い起こすわけだが、それは当然なことととしても、だからと云って、映画が即ち取りも直さず一種の芸術以外のものではないというような常識は、勿論間違っているわけだ。街頭で文化的商品として吾々に提供されるものは大部分映画芸術としての映画であるが、云うまでもなく最近では、ニュース映画の価値も極めて高く評価されているのが街頭の事実であって、ニュース映画はもはや全く、芸術としての映画ではなく、映画芸術ではない。戦争が新しい美を産むのだというようなことを主張する馬鹿者もいないではない、すると戦争ニュースも大いに芸術になるわけだが、馬鹿者は相手にすべきではない。それに、ニュース映画の映画価値に対する認識は、実際を云うと、戦争ニュースの登場以前から用意されていたのであって、映画の一般的な根本機能が世間で段々反省されるような段階に到着したことの、当然の結果であったに過ぎなかった。――
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