でニュース映画のことを考えて見ても、映画が決して芸術につきないことが判る。
 こんなことは判り切ったことのように見えるが、併し仮にこの関係を文学の問題に比較して見ると、意外な問題を孕んでいることがわかる。と云うのは映画ニュースは云わばルポルタージュ文学又はルポルタージュに比較することが出来なくはない。すると映画芸術対ニュース映画(映画ニュース)の関係は、従来の普通の文学作品対ルポルタージュ文学乃至ルポルタージュの関係と平行しているようにも見える。処がここでは文学とルポルタージュとが甚だ厄介な関係に立っているのである。ただのルポルタージュは勿論「文学」ではないのであるが、併しルポルタージュが真実[#「真実」に傍点]な角度を持つためには、少なくとも文学的[#「文学的」に傍点]でなくてはならぬ、と云うことは出来る。ルポルタージュ必ずしもルポルタージュ文学ではないが、併し本当のルポルタージュが文学的でなければならぬとすれば、一体ルポルタージュとルポルタージュ文学との区別は、どこにあるか。無理にフィクション化したのがルポルタージュ文学の方で、フィクション化したりお咄化したりしないのがルポルタージュ自身だとでも云う他ない。だがそんな区別は、結局芸術上大した区別ではない。すると単に何か文筆上のジャンルの区別に過ぎないことになる。併し小説と戯曲とはジャンルを異にするが、だからと云って、一方が文学で他方が之に比して文学でないなどとは云えない。するとルポルタージュとルポルタージュ文学とが文筆上のジャンルの差に帰しても、一方が文学で他方が文学でない、という証明にはならぬ。
 之に似たことが映画芸術と映画ニュースとの関係にも生じて来るのである。二つは映画のジャンルとして別であることは明らかだが、一方だけが芸術で他方は芸術でない、という証明としてはそれだけでは不充分だ。ジャンルは芸術によって決定されるが、芸術であるかないかをジャンルの方から決めることは出来ない。もしそんなことが行なわれるなら映画発達の初期に戻って、映画という新しいジャンルは抑々芸術ではない、と云ってもよかったことになる。
 勿論私は映画芸術と映画ニュースとが別であることを否定しようというのではない。一方が芸術であり他方が「芸術」から食み出した別なものであることを、否定しようというのではない。寧ろそのことこそを主張したいのだ。
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