程度まで、映画芸術[#「映画芸術」に傍点]の範囲を脱出したものであるからである。芸術も亦それ自身芸術政策的な本質を有ち得るものであるとも考えられるし、又は少なくとも芸術が政策上の一手段として役立てられることも一応は常に可能ではあるが、併しそれならばあくまで映画芸術という観念だけで以て充分なわけで、それだけで充分に文化映画たり得る筈である。映画芸術の一応の代表者たるべき芸術映画(之を好意に理想的な内容に於いて考えるとして)などの類から区別される必要もないわけだ。処が事実上それが区別されている処を見ると、やがて、文化映画の如きものが、所謂映画芸術というものから食み出すということに気がつくのだ。
 教育映画や科学映画というもの(それから宣伝映画、記録映画、ニュース映画、その他)になれば、それが所謂芸術映画と峻別されることは勿論のこと、所謂映画[#「映画」に傍点]芸術というカテゴリーからも峻別され得るということが明らかである。この点文化映画についてよりも一層明らかである。文化映画は一面芸術と――観念上――ごく接近した観念とも云うことが出来るだけに、映画芸術[#「映画芸術」に傍点]なるものの制限[#「制限」に傍点]を感得するには手頃の材料なのだ。
 だが私は文化映画を問題にしようというのではない。映画芸術なるものの、映画全般から見ての制限について、まず注目したいからである。つまり世間では、映画と云えば何より映画の芸術を思い起こすわけだが、それは当然なことととしても、だからと云って、映画が即ち取りも直さず一種の芸術以外のものではないというような常識は、勿論間違っているわけだ。街頭で文化的商品として吾々に提供されるものは大部分映画芸術としての映画であるが、云うまでもなく最近では、ニュース映画の価値も極めて高く評価されているのが街頭の事実であって、ニュース映画はもはや全く、芸術としての映画ではなく、映画芸術ではない。戦争が新しい美を産むのだというようなことを主張する馬鹿者もいないではない、すると戦争ニュースも大いに芸術になるわけだが、馬鹿者は相手にすべきではない。それに、ニュース映画の映画価値に対する認識は、実際を云うと、戦争ニュースの登場以前から用意されていたのであって、映画の一般的な根本機能が世間で段々反省されるような段階に到着したことの、当然の結果であったに過ぎなかった。――
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