だが、それにも拘らず、一方が芸術であり他方が芸術でない、かどうかということよりも、要するに両者とも映画であるということの方に、意義の重さを認めようとするのだ。私は芸術と非芸術とをまず第一に区別して、その上で映画芸術を前者に、映画ニュースを後者に、含ませようという分類には、すぐ様は賛成出来ない。その位いなら寧ろ第一に、例えば映画と文学とをまず区別する。そして映画の内へ映画芸術と映画ニュースとを区別した方がいいと思うのだ(文学の内には芸術的文学=文芸と文献学=古典学とを区別する)。
芸術という文化の「ジャンル」は文化史的には最も直接な所与の現象を示すものだが、之を分析的に分解するためには必ずしも分解の要具とはならぬ。分解のための工作機械は、文学とか映画とか美術とか工芸とか建築とかいうような区別であって、夫々が芸術のジャンルにぞくしたものとぞくさないものとを持っているのである。建築は一体芸術であるかそれとも住居の用具であるか。工芸品は道具なのか芸術なのか。――でこういう意味に於て、映画は芸術であると否とに拘らず、まず第一に映画だということを強調しなくてはならない。そうすることによって初めて、芸術としての映画や芸術でない映画の区別も出て来るわけで、と云うのは映画は断じて文学や何かという偶然な先蹤芸術からの類推から独立しなければならないのであって、そのためには自分自身で何が芸術的[#「芸術的」に傍点]であるかを決定しなくてはならぬ。之は芸術であるかないか、こう決まることではなく、逆に、映画であるのかないか、こう決まる他ないことだ。
ニュース映画の場合はルポルタージュ文学などと類推される恐れがある。映画芸術とそれから食み出した映画との関係を割合純粋に問題にするためには、だから一見明瞭な「映画芸術的映画ニュース」の関係を見るよりも、一見曖昧な「映画芸術対文化映画」の関係などを見た方がよかったわけだ。
それ故、映画芸術という観念には二重の検閲を必要とする。第一は、映画は何よりもまず「芸術」であるという常識に導かれていはしないかという点。第二はその「芸術」なるものが映画以外の常識からステロタイプとして映画に持ち込まれたものではないかという点。前者については、問題は簡単なように見える。誰しも少し考えて見れば、映画が芸術だけでないことを知っているからだ。併し後者については、問題は依
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