ネいわけにはいかないのは、自明なことである。だが問題の核心は、社会の歴史的発展の全体を、この生産力の客観的――物質的・自然的――成長と生産関係との矛盾から、説明[#「説明」に傍点]するということに存する。社会は木や石ではない、ただ夫を物質的なモメントから出発して説明しなければ、まとまりがつかないように出来ていると言うのである。
人間社会の歴史的発達は、云うまでもなく存在の自然史的[#「自然史的」に傍点]発達が高度に発達したものである。だから[#「だから」は底本では「だがら」]、人間史は、この意味に於ける自然史(博物学)的基礎[#「基礎」に傍点]を現に[#「現に」に傍点]有ち、又社会の歴史そのものは、自然史をその時間上の先行[#「先行」に傍点]条件とする。一般的にダーウィン主義と呼ばれて好い進化論[#「進化論」に傍点]は、この基礎とこの先史的時間点とに於て、史的唯物論[#「史的唯物論」に傍点]と交錯する。だが史的唯物論のプロパーな問題は、人間社会生活の原始的[#「原始的」に傍点]な諸条件とその発展との研究から初めて始まる。そこでは人類学的・考古学的・人種学的・土俗学的・な諸条件――それは現在に於ける[#「現在に於ける」に傍点]原始民族の研究に俟つ処が甚だ多い――が、唯物史観的根本方法によって貫かれねばならぬ*。
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* 例えばF・エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』はこの研究の古典的な一例である。
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併し史的唯物論の何よりもの特色は、夫が生産関係を基準として、社会の発展を最も統一的に客観的に段階づけることが出来るということである。マルクスによれば、社会は主に、アジア的[#「アジア的」に傍点]・古代的[#「古代的」に傍点](奴隷制度的)・封建的[#「封建的」に傍点]・近世資本主義的[#「近世資本主義的」に傍点](市民社会的)の四つの生産様式の発展段階に分けられる(尤も最初の二つを一つにして三段階に数えても好い)。――之が歴史科学[#「歴史科学」に傍点]の記述のための根本区画なのである。
世界史のこのような段階づけが、マルクスに至って初めて意識的になったということは、原理上の意味がある。と言うのは、近世資本主義的生産関係に立たされるのでなければ、こういう区画に従う歴史記述の方法を意識[#「意識」に傍点]することは出来なかっただろうからだ。元来史的唯物論は、(近世)資本主義的生産関係から生じた処の、一つの特有なイデオロギーでもあったのである。だが歴史記述のこの区画は、ただ客観的な思い付きによったものではなくて、寧ろ初めから、社会の一定のマルクス主義的分析の結果[#「分析の結果」に傍点]、必然的に与えられた処のものである。――唯物史観に於ける歴史記述[#「歴史記述」に傍点]は、社会の分析[#「社会の分析」に傍点]と、表裏をなして対応する。そして歴史記述が、歴史の過去の出発点から始められねばならぬに反して、社会分析は歴史の現在に於ける到着点から始められねばならない。史的唯物論による記述方法が発見されたのが、現在の近世資本主義制度の下に於てでなければならなかった所以である。
元来、一切の事物がそうであるが、社会の組織的構造――論理的秩序[#「論理的秩序」に傍点]――は、社会の歴史的[#「歴史的」に傍点]秩序を反映する。現在に於ける社会が持つ構造上の諸モメントは――夫が分析によって分離され且つ総合されるのである――、悉く、社会が歴史的に経過して来た処の諸モメント――夫が歴史記述によって跡づけられるのである――が、最後の具体的展化に至るまでの歴史過程によって磨きをかけられた処の、痕跡に他ならない。それ故吾々は、理論的[#「理論的」に傍点]な歴史記述をするためには、現在[#「現在」に傍点]に於ける――之が歴史の最も具体化されている時間点である――社会を分析[#「分析」に傍点]すれば好いわけであり、又是非ともそうしなければならないわけである。で、人間社会の歴史記述は、或いは寧ろ歴史的分析[#「歴史的分析」に傍点]は、現段階の社会の、即ち資本主義社会[#「資本主義社会」に傍点]の、理論的分析[#「理論的分析」に傍点]を以て始められなければならない。
さて、現在に至るまでの社会の、最後の・従って又最も発達した・段階であるこの(近世)資本主義社会は、膨大な商品集積[#「商品集積」に傍点]の世界であるということを、他のものとは異る特色としている。そこでは総括的に云えば、一切の事物が商品として、或いは商品と結び付けられて、最後の社会的意味を受け取る。一切の社会的存在の社会的人的関係は、商品世界によって特徴[#「特徴」に傍点]づけられ、商品の構造の内に自分の構造を集約[#「集約」に傍点]する。資本主義社会・ブルジョア社会は、自分の特有な特色として、商品世界を抽出[#「抽出」に傍点]するのである(商品でない処の事物がいくらでもあるということは、この社会の総括的特徴[#「総括的特徴」に傍点]が商品社会だということを何も妨げはしない)。之は歴史がその過程を通じてブルジョア社会にまで具体化[#「具体化」に傍点]して来た、その結果、必然的にそれ自らに施す処の抽象[#「抽象」に傍点]・自己分析[#「自己分析」に傍点]である。吾々が今、社会の、即ちブルジョア社会の、分析を始めるためには、――そして分析とは常に抽象である――、だから、この商品という抽象物を、吾々の行なう分析(抽象)の手懸りとする他はないのである。吾々の分析は、かくて、社会の歴史が現在に於て示している自己抽象[#「抽象」に傍点](商品の抽出及びそれに続く一切のもの)に従うことによって初めて、客観的な社会の現在段階に於ける具体的[#「具体的」に傍点]連関を認識に迄反映することが出来る。一般に吾々は、こうやって初めて、分析という抽象[#「抽象」に傍点]を用いることによって却って認識を具体[#「具体」に傍点]化することが出来るのである。
ブルジョア社会に於ける商品は、社会自身の構造を自分の構造として集約している。商品には一切のブルジョア社会関係が、その人的関係をも含めて、含蓄されている(商品の物神崇拝性[#「物神崇拝性」に傍点])。夫はこうである。
商品は何時の世でも、使用価値と交換価値とを持つが、ブルジョア社会の商品は、使用・消費故の交換を目的として生産されるのではなくて、単なる[#「単なる」に傍点]交換を目的として生産されるのを一般的な事情とするのだから、商品価値は専ら交換価値に帰着する。様々に質を異にした使用価値は、そのものとしては相互の比較を許さないが、交換価値になれば共通の尺度によって相互に比較されることが出来る。商品の価値は、与えられた発展段階に於ける生産関係に相応する処の平均的な人間の平均労働[#「平均労働」に傍点]のどれだけが(何時間分が)その商品生産に必要であるかによって、決定される。価値の生産者は人間労働である。――この価値に基いて初めて商品交換は可能となる。そして一切の商品交換のための共通な手段として、特殊な物性と社会的機能とを具えた一定の商品として、金[#「金」に傍点]・貨幣[#「貨幣」に傍点]が見出される。
人間は何時の世でも労働力を持ち又之を働かせる。だが資本主義社会に於ては、社会の大多数の人員が、特徴的に、労働手段と労働対象との一切の所有権を、産れながらに失って了っているということがその特色である。処が彼等が生活するためには、即ちその労働力を働かせるためには、労働の手段と対象とを一時的たりとも自分の手許に置いて使わねばならぬ。だが彼等労働力のみの所有者――労働者[#「労働者」に傍点]――が労働手段と労働対象とを使うということは、資本主義社会では、労働手段と労働対象との少数の私有者に彼等自身が使われるということである。この雇傭関係は、彼等多数の無産者[#「無産者」に傍点]が、生活するために、小数のかの私有財産の所有者に向って、自分の労働力[#「労働力」に傍点]を売り渡し、その価格として労賃[#「労賃」に傍点]を受け取るという、交換[#「交換」に傍点]過程である。之は生きた労働力を商品と見立てた処の商品交換であるから、その場合の雇傭関係は自由契約[#「自由契約」に傍点]の形式を踏むのである。
労働力を労働者から時価[#「時価」に傍点]を以て購入した私有者は、自由に、この労働力を最も能率よく使用せしめることによって、労賃以上の売値に相当するだけの価値を有つ商品を生産せしめる。こうやって出来上った商品の価値[#「商品の価値」に傍点]はだから、使用した労働の価値[#「労働の価値」に傍点]よりも多いわけである(その多いだけの価値が余剰価値[#「余剰価値」に傍点]と名づけられる)。即ち、私有者は支払った労賃以上の価格[#「価格」に傍点]で商品を売ることによって利潤[#「利潤」に傍点]を居ながらにして受け取るのである(無論この限りでの利潤は、その一部分が余剰価値のそれ以上の再生産の種として、すぐ様引き上げられねばならぬが)。この利潤は無論労働力の売渡し人には帰らない、彼等にはすでに労賃が、而も時価という正義ある価格で、合意の上、支払われてあった。――だがそれにも拘らず、余剰価値は、労働力所有者の労働によって生産されたものだという事実に、変りはない。処がそれが、労働する代りに労働力を購買・管理するだけの労を取ったに過ぎない労働手段・労働対象の私有者の手に、帰するのである。だからこの関係は Usurpation である。之は私有者の悪意や善意とは無関係に“squeeze out”なのである。
この Usurpation の根本機構は、それ自身の内に自分を益々強めて行くという構造を含んでいる。余剰価値は、無限に余剰価値を再生産する。利潤は利潤を産むのである。かくて資本[#「資本」に傍点]は私有財産所有者の手に蓄積[#「蓄積」に傍点]する。資本は資本家[#「資本家」に傍点]の懐に、加速度を以て集中する。だから社会の富は資本家が独占[#「独占」に傍点]する処となる。従ってその反面に於て、社会の富は、労働者[#「労働者」に傍点]の手から益々遠ざけられて行かざるを得ない(余剰価値説なくして、今日に於ける金と富との膨大な集中は理解出来ない)。ブルジョア社会に於ては、資本家はその個人的能力からは比較的独立にその富が益々安定して来、之に反して労働者の貧困は、その個人的な能力とは無関係に、益々恒常なものとなる。さてこうやって富と貧困との対立が恒常化すと、資本家と労働者とは、もはや単なる個人の資格の名ではなくて、二つの階級[#「階級」に傍点]の名となる。ブルジョアジー[#「ブルジョアジー」に傍点]とプロレタリアート[#「プロレタリアート」に傍点]とになるのである。
ブルジョア社会は、本質から言って、ブルジョアジーとプロレタリアートとの階級対立に基く社会であり、生産の手続き上からは squeezing system により、経済的には貧困化により、政治的には抑制により、前者が後者を支配[#「支配」に傍点]する処の社会である。そしてブルジョアジーのプロレタリアートに対するこの支配が、余剰価値の再生産の過程と共に、益々強化されて行く処の社会なのである。ブルジョア社会に於ける国家[#「国家」に傍点]はブルジョアジーの階級的支配のための最高の機関となる*。
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* この資本主義社会の現在に於ける諸矛盾[#「矛盾」に傍点]とそれによる新しい社会制度への蝉脱とは、社会科学的世界の最も生彩のある内容であるが、史的唯物論のごく全般的な規定に止まらねばならぬ今の吾々は、之を省略することを余儀なくされる(之に就いては前述の一般的な部分及び前出拙稿「唯物史観とマルクス主義社会学」二九頁以下を見よ)。
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さて以上のようなものが、史的唯物論(社会科学的世界)の具体的内容の、ごく
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