いるのである。
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* 感覚乃至知覚の有っているこの能動性を観念的な云い現わしで云えば意志[#「意志」に傍点]の形をもっていると云うことが出来る。コンディヤックの感覚論から、メヌ・ド・ビランの主意説が展開した。――かくて知覚乃至感覚の能動性の理解を一歩誤れば、唯物論の代りに典型的な観念論を結果する。一般に能動主義[#「能動主義」に傍点]の危険はそこにあるのである。
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だからこそ又、反映・模写に於ける誤謬[#「誤謬」に傍点]の可能性も潜在し得るわけで、それでなければ誤謬の存在は説明出来なくなるし、又誤謬を訂正することも、之を訂正する論理学や方法論も、全く無意味にならざるを得ない。ただの死んだ鏡には無論こうした能動性はない。だが認識する者は実は鏡ではなくて、社会的に生きている実践的な[#「実践的な」に傍点]人間だったのである。
実は感覚乃至知覚というものが、人間的活動・実践の最も端初的な形態だったのである。科学の科学性はその実証性=実験性にあったが、この実験乃至実証とは終局に於て知覚に訴えるということであった。そしてこの
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