、どんな感覚・知覚であっても、具体的な事実としては決して単なる主観の感動によって成り立ち得るものではない、ということだ。知覚が物からの影響であり、所謂印象[#「印象」に傍点]であると云っても、単に、静止している主観(それは完全に死んだ主観のことになるだろう)に物が作用するということではない。例えば触覚は主として身体の部分的移動によって発生する。吾々が少しも身体を動かさないとすれば、吾々は遂に何等の触覚も覚えずに死んで了うかも知れない。触覚の発達である嗅覚や味覚は、事実筋肉の能動的な運動を介して初めて生じるだろう。視覚も亦眼球の運動によって知覚を生じるのが具体的な事実である*。――それ故感覚乃至知覚そのものは、客観的な物自体からの印象であるにも拘らず、その印象を生ぜしめる反射能力としての積極的な能動性に基いているのが実際なのである。カントは感性を単に受容性[#「受容性」に傍点]の能力と考え、自発性を欠いたものだと極力主張しているが、そういう所謂感覚[#「感覚」に傍点]が心理的事実に遠いことは、すでに述べた。模写は事物のありのままの反映であるにも拘らず、意識する主体の自発的な能動性を有って
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