の対立に、当然逢着しなければならなかった筈だった。そうすれば恐らく彼は、その単なる所謂構成説に、即ち模写説の単なる反対物としての構成説に、踏み止まることは出来なかっただろう。――だが一体所謂模写説と呼ばれるものの真理はどこにあるのか*。
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* カントの物自体に就いての解釈の内、最も優れたものはエンゲルスとレーニンとによって与えられた処のものである。彼等によれば、物自体、物そのものとは、カントが考えたように、現象(吾々にとって現われた物)と絶対的に隔離されたものではあり得ない。物そのものが現象として現われる[#「現われる」に傍点]のである、「物自体は吾々にとっての物となる[#「なる」に傍点]」のだ。物自体に対する不可知論は、この観念と現象の観念とを機械的に隔離する形而上学(ヘーゲルが使い始めた意味に於て)的な論理からの誤った帰結の一つに他ならぬ。エンゲルス『フォイエルバハ』、レーニン『唯物論と経験批判論』を見よ。――なお模写説に就いては、右の二著書の外に、マルクス「フォイエルバハ論綱」、エンゲルス『反デューリング論』其の他を見よ(何れも岩波文庫訳
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