蜂だ)、併し両者に於ける根本的な同一(対立を貫く同一)が今必要だ。弁証法的唯物論に立てば、このことは常に忘れることを許さない根本テーゼであった。
 処が、或る種の「マルクス主義者」達は、史的唯物論以外に弁証法的唯物論を認めようとしない。即ち自然弁証法(エンゲルスの言葉をそのまま使えば「自然の弁証法」)は之を認めないのである*。或いは一応認めるにしても、之を自然科学[#「科学」に傍点]という人間社会の歴史的所産(イデオロギー)に於ける弁証法として認めるか、そうでなければ、自然に関する弁証法という人間的認識乃至主観的態度としてしか認めない**。自然そのものに弁証法があるとか、弁証法が自然そのものの根本法則であるとか、云うのは、弁証法を不可知なものにする神秘化[#「神秘化」に傍点]であって、却って形而上学的な仮説でしかない、というのである。
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* 〔G. Luka'cs〕, Klassen und Bewusstsein や K. Korsch, Marxismus und Philosophie, 所謂三木哲学、などに見られる唯物史観主義が之である
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