って、それからの抽象物として初めて、思惟一般の弁証法が成り立つ、という風に云わなくてはならぬ。そうしないと、認識=思惟が実在の反映であるという唯物論的な認識理論の根本が、正当な権利を主張出来なくなるからだ。つまり夫だけ弁証法に対して観念論的な見解を混入することになるからである*。
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* 思惟一般の根本法則としての唯物弁証法一般をまず想定しておいて、之を自然に対する思惟(自然科学)や社会に対する思惟(社会科学)に適用しようと考えれば、それが可能であるためには、弁証法はこの二つの科学に於ける天下り式の方法[#「天下り式の方法」に傍点]である他はなくなる。科学に於けるこの天下り式方法を自然弁証法や史的唯物論だと見做すのが、デボーリン主義として批判された方法論主義[#「方法論主義」に傍点]である。――だがこのことは、自然弁証法や史的唯物論が持っている科学の実際的な方法[#「実際的な方法」に傍点]としての意義を、少しでも軽んじるということではない。科学の方法によらずには何等の科学的世界も成り立たない。科学的世界に於ける方法の最も重要な役割を見落すことは全
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