るのである。元来思惟が思惟であるためには、ただの観念や表象や又空想であってはならないので、云うまでもなく認識でなくてはならぬ。と云うのは、実在の反映・模写でなければならなかった。そうすると、思惟一般の根本法則(夫が唯物弁証法一般だったわけだが)は、無論この実在の根本法則に照応すればこそ、初めて思惟[#「思惟」に傍点]の根本法則でもあり得たわけだ。従って、思惟一般は、最初からそれ自身としてまず横たわる処のものではなくて、却って実在の具象的な諸認識、人類の総経験、の歴史的所産として初めて抽出された、一結果に他ならない。之は一切の認識がそれに基く処の想定ではあるにしても、この想定自身が却ってこの一切の認識の所産だったのである。して見るとここから明らかなように、思惟一般の弁証法がまず第一にあって、夫が自然に関する又社会に関する思惟にまで適用されて初めて、自然弁証法と史的唯物論とが成立するかのような[#「かのような」に傍点]云い表わし方は、何と云っても誤りでなくてはならぬ。
実はまず初めに自然弁証法と史的唯物論とが何等かの過程を通じて(ここにも亦同じ形の問題が伏在しているが)、成り立つべきであ
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