Eロッツェの『形而上学』(実はヘルバルトに由来する)であった。哲学は形而上学として復興されるというのである。恰も今日の新ヘーゲリヤンのように。フォイエルバハの唯物論は云うまでもなく、之に反して、哲学を唯物論として「救済」したのであるが。
[#ここで字下げ終わり]
現代のように諸自然科学・社会・歴史・文化・精神・諸科学が、夫々のコースに沿うて、一応独立に而も相互の紛糾した錯綜に於て、発達し又発達のテンポを速めつつある状勢にあっては、科学なるものを一般的に、そのものとして一纏めに、テーマとすることは、極めて困難だと云わねばならぬ。だがそれだけに又恰もその企てが要求されざるを得ないということも真理だ。そこでこの錯綜を整理整頓する仕方の何より手近かなのは、云うまでもなく之を分類[#「分類」に傍点]することだ(Divide et impera――分割してから支配せよ)。――処が分類には分類の原理[#「原理」に傍点]がなくてはならぬが、恰も科学の方法[#「方法」に傍点]こそがこの科学分類の原理とならなければならぬというのが、今日の所謂「科学論」の立場に立つ人々の与える処の結論なのである。こうし
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