Kずしも言葉通りに、一般に科学の方法に就いての理論であるには止まらない。夫は近代ブルジョア哲学上、すでに一定の歴史的な約束を持った言葉になっている。吾々は何もこの約束を守らねばならぬ義務はないのであって、却ってこの約束を破ることによってこそ初めて本当[#「本当」に傍点]の科学方法論に到着し得る筈であり、その点、科学論(というこの書物の表題)自身に就いてと全く同じであるが、併し少くともこの約束を知らずには、科学の方法に就いて語ること(それが科学方法論だ)は不可能になっている。そういうような条件の下に、すでに吾々は置かれているのである。
 所謂科学方法論がどういう歴史的約束に束縛されたものかは次に見るとして、ここで予め注意しておかなくてはならぬのは、科学の方法を論議するらしく見えるものに、この所謂科学方法論(Methodenlehre―Methodik)を他にして、なお方法論[#「方法論」に傍点](Methodologie)という言葉があることである。Methodenlehre でも Methodologie でも、言葉としての意味だけから云えば殆んど何等の区別はないわけであるが、併し実際
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