れて見る必要を感じたまでで、夫が例の物自体の存在[#「存在」に傍点]の認容と、それが原因となって感覚を結果[#「結果」に傍点]するという見解だったのである。――で之は立場の矛盾ではなくて単に問題の相違なのだ、ただカントの不幸は、この二つの問題が全く独立に切り離して提出されうる、という風に考えて済むものだと思っていたことにあったのだ。
カント哲学の固有な問題は、知識の一種の客観性(社会人の諸主観に普遍的に必然的に通用し得るという特権)に就いてである。これを説明し得るために彼は、知識が物そのものを、そのまま[#「そのまま」に傍点]写したものではあり得ないということを、即ち物自体は認識出来ないということを、強調せざるを得ない。知識とはカントによれば、主観に与え[#「与え」に傍点]られた処の(但し与えられるには物そのものが主観に作用したのだったが、与えられた以上そんなことはもう忘れて了っても差支えない)、例の感覚を材料として、之を、主観の側に先天的に(物そのものと無関係に)具わった規則(空間・時間・範疇・図式・原則など)によって、手落ちなく按配したものに他ならない。知識、乃至広義に於ける経験や認識、即ち又客観性を有った知識=真理は、物という客観[#「客観」に傍点]にその権利根拠を基づけているのではなくて知識のこの構成[#「構成」に傍点]の結束に手落ちがなかったという主観の客観性[#「主観の客観性」に傍点]に、その権利根拠を有っているわけである。――だからここでは、知識とは主観が積極的に構成したものであって、決して主観が受動的に客観物を写し取ったものではない、ということになる。経験とか認識とか(之はカントでは実は科学的[#「科学的」に傍点]或いは自然科学的[#「自然科学的」に傍点]な段階に上った知識のことだ)という知識の諸段階は、皆そうして成立するというのである。
だがカントはもう一方の問題を解決しようとはしていない、物自体が心を触発[#「触発」に傍点]するという方の問題を。処で之を解けばどういうことになるか。夫は取りも直さず、模写説[#「模写説」に傍点]理論となるものなのである。もしカントが自分自身提出し又は一寸ばかり持ち出したこの二つの問題を、同時に[#「同時に」に傍点]解こうとすれば、知識に関する例の構成説[#「構成説」に傍点]とこの模写説[#「模写説」に傍点]との対立に、当然逢着しなければならなかった筈だった。そうすれば恐らく彼は、その単なる所謂構成説に、即ち模写説の単なる反対物としての構成説に、踏み止まることは出来なかっただろう。――だが一体所謂模写説と呼ばれるものの真理はどこにあるのか*。
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* カントの物自体に就いての解釈の内、最も優れたものはエンゲルスとレーニンとによって与えられた処のものである。彼等によれば、物自体、物そのものとは、カントが考えたように、現象(吾々にとって現われた物)と絶対的に隔離されたものではあり得ない。物そのものが現象として現われる[#「現われる」に傍点]のである、「物自体は吾々にとっての物となる[#「なる」に傍点]」のだ。物自体に対する不可知論は、この観念と現象の観念とを機械的に隔離する形而上学(ヘーゲルが使い始めた意味に於て)的な論理からの誤った帰結の一つに他ならぬ。エンゲルス『フォイエルバハ』、レーニン『唯物論と経験批判論』を見よ。――なお模写説に就いては、右の二著書の外に、マルクス「フォイエルバハ論綱」、エンゲルス『反デューリング論』其の他を見よ(何れも岩波文庫訳あり)。
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模写説は普通の「哲学概論」によると、素朴実在論に立脚する認識理論だということになっている。と云うのは、認識されている通りのものがそのまま客観の終局の姿だ、という想定を有っているというのである。之によると色盲にとっては赤と青との区別は客観的に存在しないのだし、焔の次に現われた井戸水は氷の次に現われた同じ井戸水よりも遙かに温度が低いということになる。之は云うまでもなくナンセンスである、だから模写説はナンセンスに帰する、という筋書きである*。
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* 或いはもう少し真面目な批評はこうである。仮に認識が客観的な原物の模写であり、この原物と一致するコピーであるとしても、原物とこのコピーとの一致そのものの認識は再び又、この一致という関係自体に一致するコピーである。従ってコピーが果してコピーであるかないかは、どこまで行っても決まらないではないか、というのである。だが、コピーであるかないかは頭の内では決まらないかも知れないが、実践によって立派に決定される。――認識に於ける実践の役割に就いては後を見よ。
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