り]

 併し世間の「素朴」な常識は、事実上決してそのようなナンセンスな模写理論を有っているのではない。健全な常識は、或る一定の物に就いての吾々の認識が、時と共に変り又豊富になって行くという事実を知っている。一遍々々の認識内容が、そのまま物そのものの終局の姿を反映しているなどと信じている者は、「素朴」な常識の所有者ではなくて、哲学概論家によって造り上げられた教室用のモデルとしての仮想敵か案山子だけだろう。吾々の意識は客観的存在そのものを、時の経つに従って部分々々に漸次に認識して行く。物は一遍に現象するのではなくて、次第に順を追うて反映されるのである*。夫が模写・反映ということの仕方に他ならない。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* フッセルルの現象学はその一種の主観主義にも拘らず、物とこの現象との関係を、意識現象に関する限り適切に解明している。例えば「物は abschatten する」。つまり物は一遍に意識の眼の前に現われるのではなくて、部分々々に、次々に、順次に現われるのであり、之を通じて初めて、物は全体的に現われる、というのだ(E. Husserl, 〔Ideen zu einer reinen Pha:nomenologie ……〕)。
[#ここで字下げ終わり]

 或いは云うかも知れない。知識・認識が客観的存在の反映模写であるということが、仮に誤りではないにしても、夫は何等知識の説明になるものではない。知識・認識がそういう意味で反映・模写であるということは、云わば同語反覆に他ならないではないか、と。全くその通りである。客観的存在を模写するということは、単に[#「単に」に傍点]、知識を有つということそのこと、認識するということそのこと、以外の何物を意味するのでもないのである。云わば認識という言葉の意味[#「言葉の意味」に傍点]は、実在を模写するということをおいて他にないのである。認識はどういう風にでも説明され得るだろう、それは主観による知的材料の構成の結果でもいいし又ただの所謂模写・反映の結果でもいい。だがいずれにしても、認識ということが模写ということなのだ。
 一体模写・反映ということは、知識や認識を物理的な鏡の機能に譬えた言葉だが、鏡のどこに譬えたかと云えば、鏡が(平らであって塵がなければ)物をそのままに[#「そのままに」に傍点](左前になることは別として)写すという、その真実さ[#「真実さ」に傍点]を有つ点に、譬えたのである。ここで真実や真理ということは最も率直に云って、ありの儘[#「ありの儘」に傍点]ということだ。知識が真実であり真理であるためには、少なくともまず第一に、事物をありの儘[#「ありの儘」に傍点]につかまなくてはならぬ。真実とか真理とかいう常語が(哲学者のムツかしい術語は別にするとして)之を要求しているのである。そこでこの「ありのまま」の真理を掴むということを、模写[#「模写」に傍点]という譬喩を以て云い表わしたに他ならない。だからこそ、知識・認識と模写・反映とは、同義であり反覆なのである。

 ではなぜ意識は自分とは明らかに別なものであるこの物を、反映・模写出来[#「出来」に傍点]るのか、と問うかも知れない。それが出来るか出来ないかが、抑々カントの天才的な疑問だったではないか。なぜ物はありのままに掴まれ得るのか。――それはこうである。まず、意識はそれが如何に自由で自律的で自覚的なものであるにしても、脳髄の所産であるという、一見平凡で無意味に見える事実を忘れてはならない。意識が脳髄の所産であるなどは、意識の問題にとってどうでもいいではないかと哲学者達はいうなら、それならば少なくとも之を認めても差支えはない筈だろう。意識は脳髄という生理的物質の未知ではあるが或る一定の状態乃至作用だと考える他に現在道はない。之は生理学の真理を認める限り哲学者と雖も想定しなければならぬテーゼである。もし之を承認しないならば、意識の発生と成立とを哲学者はどこから説明するのか。もしその説明が与え得られないとすれば(霊魂の不滅説をでも科学的なテーゼとして持ち出さない限り)、吾々が今与えたような説明が現在可能な唯一の説明ではないか。哲学者はどこにこの説明を斥ける権利があるのか。それとも夫が到底説明し得ないということでも説明しようとするのであるか。だが不可能を説明し得るのは数学に於てしかあり得ない出来事だ(例えば五次以上の方程式の一般解決の不可能の如き)。
 さてこの物質は云うまでもなく自然にぞくしている。夫が自然の歴史的発達の一つの高度な所産である他はないということは、現在の天文学・地質学・進化論・生物学・等々が一致連関して結論している処である。で吾々は、ブルジョア観念論哲学者の苦々しい顔色にも拘らず、意識は自然の発達
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