る程多いということを忘れてはならないのである*。
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* 自然科学の如何なる専門家も、その範疇を一般的に問題にすることによって哲学の問題に口を容れる時、全く素人だということは、常に忘れられてはならない点だ。科学に信用のあることと、科学者の科学解釈を信用しなければならぬということとは、殆んど全く別なことだ。――例えば今日のブルジョア諸国の物理学者達は因果律に就いて、機械論的・決定論的な範疇をしか持ち合わさない。因果的必然は、範疇として偶然と完全に機械的に対立させられる。ところでこの機械的因果律の観念を覆すような物理現象が現われると、忽ち無条件な偶然論[#「無条件な偶然論」に傍点]などを提唱することになるのである。処が実は、偶然から切り離されて理解され得る必然などは、弁証法的にはナンセンスなのだ。
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にも拘らず、云うまでもなく科学の方法[#「科学の方法」に傍点]は、何等かの社会的歴史的主観によって(従って又おのずから多くの場合階級的に)決定し尽される[#「尽される」に傍点]ものではない。実はそれより先に、まず第一に、客観的存在=対象そのものが一定の方法を必然なものとして、科学に向って指定するのである。後に見るように、この点は忘れられてはならない点だ。が、この場合、この客観的存在が、それ自身歴史的社会的存在である場合は勿論のこと、たとい、夫が自然界であったにしても、自然は、人為化され社会化された限りの自然(技術によってマスターされた自然)と、及びその条件となっている歴史的社会一般の存在自身とに、直接連続していたから、矢張り科学は一般に、この技術的[#「技術的」に傍点]条件によって歴史的社会的に制約されることを原理的に免れない、ということになるのである。実際、社会の技術的水準[#「技術的水準」に傍点]に依存するのでなければ、如何なる自然科学も、又如何なる社会科学も、発達し得ない。――処で、この技術自身は社会階級などとは異って、何等かの主観にぞくするものではなくて、客観的な物質的な世界だが、併し大事なことは、やがてそれが階級主観に連絡していることであって、実際、技術がブルジョアジーのものであるかプロレタリアのものであるかは、一切の科学の発達進歩にとって、根本的な致命的な問題なのである*。
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