義経済学と一応同様に、全く「科学的」なのである。なぜならブルジョア経済学にはブルジョア経済学でそれ特有の立派な方法があって、それによって、そういう結論を必然的に導かざるを得なかったからなのだ。
尤も、それでは自然科学にブルジョア自然科学とマルクス主義的自然科学の区別なるものがあるか、と問われるだろう。もし理想的[#「理想的」に傍点]な自然科学があるとすれば、夫は確かに唯一の自然科学でしかあり得ない。その階級対立などは科学的に、この純粋な[#「純粋な」に傍点]科学の立場から云って、無意味だろう。併しそれは社会科学に於ても少しも変ったことではない。経済学と雖も理想的に純粋なものは、ただ一つしかあってはならない筈だ。処が自然科学は決してそれ程理想的でもなければ純粋でもないのが事実であるし、この事実がどこまでもついて回るとすればこの事実も亦原理上の問題にぞくする。のみならず実は、純粋な[#「純粋な」に傍点]自然科学、と云うのは哲学的世界観などから完全に独立した意味での純粋な自然科学などというものは、決して自然科学の理想的[#「理想的」に傍点]な場合ではあり得ない。もし仮にそうしたものが自然科学の理想だとすれば、そうした理想的[#「理想的」に傍点](?)な自然科学は今度は決して純粋さをもった本当の自然科学ではあり得ない。
自然科学は、範疇を用意しないでは実験一つも実行出来ないということを忘れてはならぬ。エーテルとか波動とかいう範疇を想定しないでは、エーテルの存在しないことを証明すべき意味を有つ実験も、物質が波動であることを証明すべき意味を有つ実験も、ナンセンスだろう。実験はいつもそれの一定の意義を想定した上で初めて実験としての価値[#「価値」に傍点]を有つ。処で夫々の実験が含むこの意義や価値を云い表わす材料が、範疇=根本概念なのだ。――で範疇をもたない自然科学は存在し得ないので、それは術語と表象を持たない物理学者が存在し得ないと同様に、当然なことだ。処がこの範疇なるものは、その大部分が哲学的世界観と直接連ったものなのである。例えば因果律とか時間空間とか法則とか等々。処がこうした観念程、現在でも哲学上の異論が百出しているものはないのだ。――で一例として自然科学に於ても、広義に於けるその方法[#「方法」に傍点]に、少くともその範疇組織の選択活用に、階級性が介入する余地は多すぎ
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