も亦実在の名に値いするのだから、実在の構造や機構というものも、実在の任意の一部分の構造や機構のことであって差閊えはない。そうした云わば任意の断片的な実在部分に照応する反映が単に所謂知識[#「知識」に傍点](Wissen)と呼ばれるものだ。
 処が実在それ自身は決して任意なバラバラなものの寄せ集めではない。実在は任意の諸部分が平面的に結び付いて出来上っているものではない。実在はその各部分の間と部分の集団の各々の間とに、実在そのものにとって必然な一定の秩序と段階づけ・階層づけとを持っているのである。広義の物理現象は云うまでもなく無限の諸部分からなっている。力学的現象・熱現象・電磁気現象・化学現象等。夫々の現象も亦無限な諸部分からなっている。又更に、同じ科学現象でも機械的な運動量移行の現象もあれば、重力や一般の加速度現象もある。この広義の物理現象の外に、更に生命現象があり、その外に又社会の歴史的現象がある。だがこうして実在の諸現象・諸部分は、一定のコオーディネーションとサブオーディネーションとによって、一つの体統をなして、集団し類別し対立しているのである。――今夫々の実在部分に照応する所謂「知識」は、実はやがてこの夫々の実在部分が一つの客観的な体統[#「体統」に傍点]をなすことに照応して、諸知識そのものの間にこの体統を諸知識体系[#「諸知識体系」に傍点]として反映するようになる。諸知識は実在の体統に照応すべく体系づけられ組織的に組み合わされる。之は知識そのものの本性上の約束から云って、極めて当然なことだったのである。だが恰もこの知識の組織(Wissen−Schaft)が、「科学」(乃至学問)の名を持つものだったのである。――科学を単なる知識から区別する処の科学らしさ=科学性を、ヘーゲルなどはだからその体系[#「体系」に傍点]の内に求めている*。
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* フィヒテは之に反して、学問(科学)の特色を体系よりも寧ろ、知る[#「知る」に傍点](Wissen)ことに、知ることの確実さ[#「確実さ」に傍点](Gewiss)に求めた。即ち彼によれば科学の確実さは、実在との関係によって与えられるのではなくて、意識の主観的な心組みの確かさ如何によるわけである。――ではその体系がどうやって成り立つか、に就いては様々な意見がある。例えば科学体系がシムボル
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