だけ云えば、意識による実在の所謂模写[#「模写」に傍点]・反映[#「反映」に傍点](即ち認識だが)なるものが、観念論哲学によって想像されるような受動的で静止したステロタイプのものではなくて、却ってそれ自身主体の実践的な能動による構成[#「構成」に傍点]に他ならないということが、明らかだろうと思う。但し夫にも拘らず、認識は常に、ものをそのあるがままに捉えるという模写・反映の鏡の譬喩の元来の意味を、失うことは出来ないのだ*。
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* なお詳しくは、拙稿「実践的唯物論の哲学的基礎――物質と模写とに関して」(『理想』三八号)〔本全集第三巻所収〕を参照。
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 さて以上は、一般に知識乃至認識に就いて、その模写[#「模写」に傍点]と構成[#「構成」に傍点]とを説明したのであったが、今や吾々はこの一般関係を科学[#「科学」に傍点]にまで押し及ぼし得るし、又押し及ぼす必要があるのである。科学は知識乃至認識の或る特別な組み合わせの場合に他ならないだろうからである。と共に、この科学としての知識乃至認識に至って初めて見出される固有[#「固有」に傍点]な、実在の模写[#「模写」に傍点]と知識の構成[#「構成」に傍点]とに就いて、分析することになるのである。処が模写の夫々の仕方と云えば、つまり知識の構成のことだったから、科学一般に固有な模写ということは、つまり科学一般に固有な知識構成[#「知識構成」に傍点]は何かということに帰着する。科学論の問題は今や、模写[#「模写」に傍点]の問題を取り扱う認識論[#「認識論」に傍点]の主題から、知識構成[#「構成」に傍点]の理論へ移る。――
 処で科学とはどういう資格を有った知識のことであるか。だがよく考えて見ると、知識それ自身が一つの構成物であった。そして構成するには一定の構成目的とその目的に適した構成手段とがあったわけだが、知識はこういう目的と手段との間に成り立つものであった。処がこの構成目的は何かと云うと、前に云ったようにつまり実在の模写に他ならない。して見ると、知識なるものはすでに、どういう場合でも一つの組織物[#「組織物」に傍点]=体系[#「体系」に傍点]であり、そしてその体系が実在の構造や機構に照応すべく之を反映しているのだ、ということになる。だが、実在の任意の一部分を取っても夫
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