て最も誤られ易い点は、それが常に何か倫理的、道徳的なものだと考えられる点だ。フィヒテはそこから、典型的な観念論[#「観念論」に傍点]の代表者となったのである。だが実践こそ、吾々が今まで見て来た筋書き通り、感覚や知覚となって第一に現われるもので、唯物論[#「唯物論」に傍点]の枢軸だったのである。
[#ここで字下げ終わり]
そこで、今人間のこの実践活動が、歴史的、社会的なものだとすれば、同じくこの実践活動が知識構成の手続きであった以上、知識の客観性を保証・確保・検閲するためのこの知識構成過程も亦、要するに人間の実践活動に帰着するものであり、又後者の一部分[#「一部分」に傍点]として初めて成り立つことが出来るものだ、ということを結果するわけである。認識の客観性は、単に知識としての知識(実践から独立した孤城の主としての知識)の内には求めることが出来ず、人間の社会的な(又歴史的な)実践活動の一部分としての知識の内にしか求めることが出来ない。と共に、知識・模写は、何等かの仕方に於ける[#「何等かの仕方に於ける」に傍点]人間の社会的実践活動が介入して構成の労をとることなしには、事実上なり立たない、という結論になるのである。
尤もどういう仕方に於て実践[#「実践」に傍点]の要素が認識[#「認識」に傍点]の過程に介入するかは、分析を必要とすることで、単に知識の理論的な行きづまり――夫は理論的矛盾となって現われるが――を実地や経験というものの責に転嫁して、理論的な解決を打ち切ることは、ファシスト的アクティヴィズムか、僧侶的な神秘主義のデマゴギーにぞくする。云うまでもなく理論はどこまでも理論であり、之に対して事実はどこまでも事実である。知識は知識であり、実践は実践なのだ。だがこの理論や知識のそれ自身の自律による一貫性が、実は経験的事実なり実践的な問題の解決なりの、線に沿うてしか起こり得ないということ、或いは起こらなくてはならぬということ、夫が今大切なのだ。実践は理論に向って、思い出したように時々干渉するのではない。例えば物理学の理論は既存の実験を根拠として成立しているのであって、単なる理論があって夫が行きづまった時偶々実験に訴えるのではない。実践は常に認識の裏や表につき添っている。如何なる認識もその意味に於て実践の理論的な所産[#「理論的な所産」に傍点]に他ならない。
で、それ
前へ
次へ
全161ページ中43ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング