が文典から惹き出したのを整理したものに他ならない。だからカントの認識構成の規準は、云わば純論理的[#「純論理的」に傍点]に――アプリオリに――導き出されたものであって、カントの実質的な仕事は単に、すでに導き出されてあったこの範疇に就いて、それの認識構成の規準の資格を詳しく検定したに過ぎないとさえ云ってもいいのである(範疇の先験的演繹)。
だがよく考えて見ると、知識の客観性が、客観的存在そのものとは全く独立に、悟性とか理性とかいう何か主観にぞくするもの(範疇其の他はそうだ)の観念性[#「観念性」に傍点]によってだけ成り立つということは、非常に奇妙なことでなければならぬ。こういう知識の客観性と、客観的存在そのものの客観性とが、全く無関係だということは、変なことだと云わねばなるまい。――知識の客観性をまず第一に保証し得るものは、実はカントに於ては知識構成という主観の先験的な作用の完全な圏外にぞくしていた処の、例の「物が心を触発する」結果としての感覚であったのであり、つまり所謂意識によって物そのものが模写・反映されるということそのことであったのである。処がこの模写・反映の第一段階であった感覚乃至知覚は、他方に於て実は又主観の主体的な実践的な活動の第一段階でもあったのである。かくて知識の客観性を保証し確保し検閲し得るものは、主観の観念性[#「観念性」に傍点]どころではなく、却って正にこの人間の実践[#「実践」に傍点]だったのであり、実験や実証というものが、この実践の云わば理論的な手続きの第一段階だったのである。
それ故、知識の構成手続き、知識の客観性を保証し確保し又検閲するための知識構成の手続きは、要するに人間的実践[#「人間的実践」に傍点]に帰着する、ということにならざるを得ない。――処が人間の実践・実際活動は、云うまでもなく感覚や知覚や観察や実験や実証やの段階に止まるものではない。一般に社会に於ける社会人としての人間活動――生産活動・政治活動――こそ、この実践の意義に於ける内容でなければならぬ。人間社会の歴史は、人間のこの実践活動を通じて、展開される。実践という観念はこの意味に於て歴史的で社会的な内容を失うことが出来ない*。感覚や実験は、之が単に理論的活動乃至知識活動に限定された時に生じる一断面に他ならない。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* 実践に就い
前へ
次へ
全161ページ中42ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング