ば、哲学者が意識と称するものは意識界ではなくて、単に超時間的な意味の連絡界[#「意味の連絡界」に傍点]のことに過ぎない。それならば確かに、宇宙の自然の時間的秩序とは無関係だろう。だがそうすれば、こういう意味をどんなに解釈[#「解釈」に傍点]しても、物とそれの意識による認識=知識との関係の理解とは、全く無関係な筈だ。そうするとこの所謂哲学者達――実は一切の発達した高級な観念論哲学者達――は、認識理論に一口たりとも容喙する権利がない、ということになって来る*。
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* 現代の観念論の殆んど凡てのものは、実在の秩序の代りに、意味の秩序を与えようとする。世界を認識する代りに、世界が有っている意味を解釈しようとするのである。――この点の批判に就いては拙著『日本イデオロギー論』〔前出〕参照。
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 で単なる意味の世界の解釈でなく、実在する意識と実在する自然との関係になれば、「科学」が与える成果を無視して、如何なる「哲学」的な認識理論も成り立たない。処で、意識は自然の発達過程の或る段階に於て自然の内から発生したのだったが、そこから物と心との、客観と主観との、存在と意識との、対立そのものが[#「対立そのものが」に傍点]、発生[#「発生」に傍点]したのである。物と心、存在と意識、客観と主観は、単にいきなり二つ並んでいるのでもなければ、いたものでもなく、又単に論理的な仮定などとして想定される対立でもない。両者の関係それ自身が、自然的秩序に於て、宇宙時間の内に、発生した処の一関係なのだ。
 さてこうしてお互いの対立を発生せしめられた存在(物・客体的実在)と意識(心・主観)とであるから、意識ある自然が他の自然界から分裂するその分岐点にまで仮に時間的に溯ったとすれば、そこには両者の直接な実在的な同一[#「直接な実在的な同一」に傍点]が横たわっていた筈だったが、処が人間が生まれるのは、すでに存在と意識とが分裂対立して了った後なのだから、この直接な同一は、現実には[#「現実には」に傍点]実在的なものとしてはもはや存在し得ない。意識は云わば祖先以来の記憶(プラトンの想起説に於けるような)のようなものとして、観念的に[#「観念的に」に傍点]、存在とのこの直接な同一性を再発見する他はない。実在的な直接的同一の代りに、存在と意識との間の非実
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