在的な、云わば媒質(メジウム)のない、直接的同一が、ここに設定される。両者はここで、実在的には離れているが、それにも拘らず無媒質的に直接している。――処で鏡と原物との関係が丁度それであって、原物は鏡から物理的に離れているにも拘らず、否物理的に離れていることによって初めて、鏡に像となって反映され得るのである。――だから、意識が存在を模写反映し得るという事情は、それ自身自然の宇宙時間的発達に基く結果であって、単に事実上や理論上の仮定[#「仮定」に傍点]として想定されねばならないだけの関係ではないのである。
だが、以上は知識=認識ということが取りも直さず模写・反映ということに他ならないという、認識乃至模写という観念[#「観念」に傍点]、乃至は言葉[#「言葉」に傍点]の説明であって、まだ必ずしも、そのものの実際の機構の説明ではない。――さてそこで、カントによれば物そのものが主観を触発した結果が感覚だというのであった。ここに模写なるものの第一段階があるのである。つまり模写なるものの内容は、まず感覚として、或いは感覚から、始まるというのである。
尤も感覚という心理学上の概念は今日では必ずしも明確なものではない。形態心理学などの主張によれば、感覚は心理的実在性を有った要素ではなくて、単に心理学者が仮構によって造り出した心理要素に過ぎない。直接に与えられた心理的要素は感覚ではなくて、知覚[#「知覚」に傍点]だというのである。事実カントなどは感覚をば与えられた無形式な直観素材だと考え、之を改めて時間空間という直観形式にあて嵌めて初めて、知覚という資格を持った知識になると考えているから、感覚という概念のこの訂正乃至抹殺はカント認識理論の根本(その認識構成主義理論の最初の一部分)をゆり動かすものだろう。
だが吾々の場合にとっては、感覚でも知覚でも大した違いは出て来ない。それが、客観的存在としての物そのもの(実は「物」ではなくて他の何であっても大した違いは出て来ないが)が主観に与えた影響・結果であることを、示してさえいればいいのである。――その意味で、知識・認識即ち実在の模写が、第一に感覚乃至知覚として現われると云っていい。一切の知識はこの感覚乃至知覚から始まり[#「始まり」に傍点]、それから発達[#「発達」に傍点]するのである。
処がここですでに何より注意しなければならぬことは
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