過程の或る段階に於て自然の内から何等か発生したものだ、というごく当り前な哲学的結論に来るのである。
 こういう風な云い方をすると、今日の所謂哲学者達は、夫が如何にも素朴な又は幼稚な所説だというような顔をするかも知れない。科学は科学だ、自然科学の成果を以て哲学の根本問題を律することは、枝から幹を派生させるようなものだ、科学と哲学とはその立場が、アプリオリが、違っている。科学的知識の限界を明らかにするものこそ哲学ではなかったか、とそう批判主義者などは云うだろう。だが、こうした批判主義による科学と哲学との超越的な区別[#「区別」に傍点]が、如何に学問の統一をアナーキーに陥れたかを吾々はすでに見た。アプリオリが違い立場が異ると云っても、世界が二つあるのだろうか。仮に自然界と意識界という二つの世界があるとしても、その二つの世界の結合こそが今の問題だった。仮に自然界と結合した意識界の外に、純粋な意識界とでもいう世界があるとしたら、前の意識界と後の意識界とは無関係なのだろうか。無関係なものがなぜ同じ意識界の名を持っているのだろうか。
 哲学者が意識の問題を、自然の問題から切り離して問題にしてもいいように考えるのには、併し一つの重大な理由があるのである。彼等が意識の問題と考えているものは、実は意識そのものの問題ではなくて、意識が有つ根本的な併し単に一つの性質である処の、意味[#「意味」に傍点]の世界に就いての問題に他ならないのである。なる程意識は、意味を意識的に有ち得る唯一の存在(Bewusst−Sein)である。或いは意味を有つということに意識の存在性(意識されてあること)があると云ってもいい。そこで哲学者達は、意識の世界の心算で意味[#「意味」に傍点]の世界を持って来る。之ならば確かに自然界と一応別で、又それとは秩序=世界を全く異にしているだろう。
 だが第一、意味そのものは何等の時間[#「時間」に傍点]を有っていない、意味そのものはその点で超時間的で永遠なものだ。処が意識は現に時間を以て流れている。意識は流れないという考え方もあるが、それでは流れると考えられる方の意識とこの流れない方の意識とはどう関係するか、と問わねばならぬ。もしこの間に関係があるとすれば、哲学者は更に進んで、意味とこの流れる意識との連絡を与える義務も課せられることになるだろう。――でもし意味と意識とが別なら
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