としては知ることが出来ない。では、とカント批判者は云うのである、何故知り得ない物なるものを想定することが出来たか、又その必要がどこにあったか。物そのものが知り得ないということは、物そのものという観念がこの哲学体系にとって無用であり又有害であることを示すものに他ならない。物自体の観念はカント哲学の一貫した立場から清算消去されるべきものであり、それの代りに「対象X」でもいい、「ノウメナ」でもいい、又は「認識の限界」という限界概念(H・コーエンによる)でもいい、そうした何等か主観性・観念性を根拠とした概念を持って来るべきだ、というのである*。
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* カント哲学に対する各種の批判の中心は、物自体の観念を如何に片づけるかということに集中すると云ってもいい。この問題については山ほどの文献を挙げることが出来るだろう。
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 併し仮にそうだとしても、カント自身がこれ程露骨で明白な矛盾(?)をどうして犯す気になったのだろうか。『純粋理性批判』の物自体を想定した最初の部分を書いた時と、後の認識乃至知識の観念性・先験性の部分を書いた時との間には、而も精々三カ月程の経過しかないのだ。――そこでカントがこう云っていることを注意しなければならぬ、自分の哲学は先験的[#「先験的」に傍点]には観念論[#「観念論」に傍点]で経験上[#「経験上」に傍点]では実在論[#「実在論」に傍点]だと。と云うのは、知識がどうやって発生し又どういう風に出来上るかという問題に就いては、実在論の立場に立ち、即ち又物の客観的実在を認めるのだが、その知識がどうして普遍的に必然的に通用する権利を有つかという問題に就いては、観念論の立場に立ち、即ち又物そのものの性質を知ることが出来ないと考えざるを得ないのだ、というのである。
 カントは単に、だから相容れない立場を二つ並べているのではない。二つの全く違った問題[#「問題」に傍点]を別々に提出しているのである。そしてその一方をカントは単に指さしただけで解決しようと欲せず、他方の問題だけを彼は解いて見せるのである。知識の普遍的な通用性の方の問題に就いては極めて立ち入った回答を与えているにも拘らず、知識の成立の問題の方は之を故意に問題外に残したのである。つまり彼は、敢えて解こうとは思わない問題に、或る理由から最初一寸触
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