係を意味するらしい。実際彼は、そこで自分の哲学に因んで実験家ガリレイの功績に言及しているのである。
*** 知識・認識の問題も、夫が近代的な形態でなくていいなら、古代はいくらでも重大な成果を示している。特にプラトンの対話篇 Theaitetos や Sophistes, Parmenides など。
[#ここで字下げ終わり]
カントにとっては、知識の分析は感覚[#「感覚」に傍点]の問題から出発する。彼によれば感覚とは客観的に存在している処の物[#「物」に傍点]が吾々の心[#「心」に傍点](〔Gemu:t〕)を触発し之に影響を与えた結果[#「結果」に傍点]に他ならない。処でここにすでに注意されるべきは、少なくとも客観的に物[#「物」に傍点]なるものが存在するということが一つであり、之が心に一定の感覚という結果[#「結果」に傍点]を与えるということが一つである。こうした想定は常識的には全く理解し易いことで、何等の疑問はないようであるが、処が之は、カントがここから出発して後に到着する先験的な観念論の立場から云っても、又一般にカント解釈家達のカント理解から云っても、甚だしく不都合な想定だということに一応なるのである。ショーペンハウアーなどは、カントを徹底すると称して、時間・空間や因果関係は専ら現象界にだけ行なわれる表象の形式だと考えた処から、本体である物そのものが吾々の表象に感覚という結果を惹き起こす原因だということは、因果関係を現象以前・現象以外に適用するもので、不当至極だと云って非難した。夫は今論外としよう。物と心との間に原因結果の関係があると考えていいか悪いかより先に、一体物というものが客観的に存在するということを許すことが、後々のカントの立場とどう折り合えるかが、興味のある問題なのである。
カントは云っている、物があるということ[#「ということ」に傍点]を吾々は承認せざるを得ない、だが物が如何に[#「如何に」に傍点]あるか、その物が何[#「何」に傍点]であるかは、吾々が絶対に知り得ない処だ。物はある、だが物の本性、物そのもの、物自体については、全く知ることが出来ない。知り得るものは物そのものではなくて物が吾々に対して現われた[#「対して現われた」に傍点]現象、吾々に取ってそう見える[#「見える」に傍点]限りの物、でしかない、というのである。
結局物はそのもの
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