見解をうらづけるに充分でない。
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 処が一方に於て、ロックのこの経験論は、やがて経験なるものを単なる感覚乃至知覚に還元することによって、バークリの知覚唯存主義となり、露骨で戯画的な主観的観念論にまで「純化」されたが、やがて又之を社会的な観点に移すことによって、D・ヒュームのコンベンション主義となり、事物の客観的法則に対する懐疑論に到達したのである。他方に於て、デカルト・ライプニツの合理主義は、ドイツに於ける啓蒙哲学の組織となり、C・ヴォルフの合理哲学=形而上学の形をとって集成されることになった*。このヴォルフ的形而上学を踏み越えるために、ヒュームに感動し、ロックの本来の問題――経験――を大規模に取り上げたものが、I・カントであることは、広く知られている**。尤もこの際J・N・テーテンスの心理学がカントの経験の分析にとって重大な先駆の役割を果しているのだが。――かくて吾々は、知識の問題を、特にカントに沿って取り上げる歴史的理由を持つのである。之は必ずしもカント主義者の真似をするためではない***。
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* 今日のドイツ哲学のターミノロジーの多くはヴォルフ学派の手によって整頓されたものである。のみならずドイツ講壇哲学の体系はこの時初めて設定されたと見ていい。――ドイツの啓蒙哲学はイギリス・フランスのものに較べて独特な形をとった。何よりも夫が組織的な哲学体系[#「体系」に傍点]として現われたということは、全くドイツ的な現象と云わねばならぬ。
** 前にも云った通り、ベーコンでもそうだったように、経験と実験とは離すことの出来ない関係に立っている。カントは或る個所で、自分の哲学を実験哲学[#「実験哲学」に傍点]とも呼んでいる。彼が自分の哲学方法をコペルニクス的転回と云って誇っているのは好く知られているが、普通之は主観を中心として客観界を処理しようという観念論への転回を指すのだ、という風に理解されている。処が、併しよく考えて見ると、コペルニクスでは、云わば主観に相当する地球の方が、客観に相当する太陽の方を中心にする、という風に処理されるのであって、その逆ではなかった。で所謂コペルニクス的転回なるものは、実験や観察[#「実験や観察」に傍点]に基いて研究した結果、従来とは全く方向の逆な結論を得ることが出来る、という関
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