律法の博士達や「学者」のものでもない。教えや道としての学問は権威[#「権威」に傍点]がなくてはならぬと考えられた。哲学(中世では一切の学問が哲学と呼ばれる――光学さえが)は神学の婢女だというスローガンは有名であるが、云うまでもなく之は、学問が宗教の一部分となるのでなければ社会的存在を許されない、ということだった。「権威」のないものは学問ではあり得ないというのだ。ヨーロッパ中世末期の哲学が、神学のこのカトリック的権威から独立しそうにし始めたので、そこで教会はこのスローガンを選ばなければならなかったのである。
 だが今日の学問は云うまでもなく、芸術一般からも道徳的教説や宗教的信条からも区別されている。そしてその故にこそ却って一つの独立な権威[#「独立な権威」に傍点]を有つものだ、ということになっている。この学問的権威の独立性は、強権によるものでもなければ決議によるものでもなく、又修辞的説得力に基くのでもない。社会秩序に順応したり君臨したりするのでもなく、又多数決や話術やによるのでもないということが、近世以来の現代的学問の、独立性と権威だと信じられている。無論、単に天才や何等かの人間の創造するものだということから、学問のこの学問らしい権威ある独立が結果する理由もあり得ない。――では近代的科学のこの「独立」はどこから来るのか。つまり、この近代科学の科学性[#「科学性」に傍点]はどこに存するのか。

 近代的学問の特色は、近世の自然科学がその内に於て占める極めて重大な位置によって、明らかにされている。云うまでもなく現代の諸科学は、何も自然科学自身や又は多少とも自然科学的な特徴を有った学問に限るのではない。まして、ブルジョア社会の文化相に適切に順応するように出来ているという意味でブルジョア的である処の、歴史学や社会諸科学になれば、自然科学的であるどころではなく却って一定の意味に於て反自然科学的でさえあるものが甚だ多い*。だが、こういう反自然科学的傾向を有った諸科学でも、今日では夫が特に自然科学に対立しているという特色を強調しなければならぬ程に、自然科学は近代的学問一般にとっての公然たる標尺となっているのである。だから歴史学や社会科学の内でも、みずから進んで出来る限り自然科学の特色を模倣し、之に接近しようと企てるものが少くない(H・T・バックルの歴史学、A・コントの社会学、ケトレ
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