自然科学も社会科学も成り立ちはしないのである。――そして範疇のこの共軛関係なるものは他でもなく、自然と歴史社会とが、一つの史的発展の二つの異った段階であったという実在関係に、根拠を有っていた。
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* 共軛性の説明については拙著『現代哲学講話』〔前出〕の初項を見よ。
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学問乃至科学一般はその理想から云って唯一で単一な統一物でなくてはならぬ。処が社会科学乃至歴史科学は、夫が唯物論的哲学組織に基かない限り、現にブルジョア社会科学の場合に見られるように、第一、自然科学との間に何等の原理的な必然的連関を見ることが出来ない。そればかりではなく、唯物論に立脚しない限り、社会科学乃至歴史科学の夫々の間に殆んど何等の理論的一致の可能性を保証し得ない。更に又夫だけではなく、自然科学も亦唯物論と絶縁する時、何等哲学に対して本質的に意義のある結合を有つことが出来ないし、又その必要さえも感じ得ない。専門の科学者が自然科学自身に基いて企てると号する自然科学観や世界観が、如何に任意で勝手なマチマチのものであるかを見れば、この点はよく判る。で、凡そ科学なるものを統一的に体系化[#「体系化」に傍点]し得るものは、ただ唯物論だけだという結論となる。技術的範疇の特色である範疇の共軛性が之を能くするのであった。
哲学とは範疇体系(=方法・論理)の他の何物でもない。F・エンゲルスが『フォイエルバハ論』に於て、将来の哲学は形式論理と弁証法との他にないと云ったのは、この意味だろう。所謂科学は云わば特定の認識内容[#「内容」に傍点]である、之に対して所謂哲学はそれの特定形式[#「形式」に傍点]と、夫の一般形式への拡大[#「拡大」に傍点]とを意味する。方法や論理は、このような認識の形式を指すのでなければならぬ。ただこの形式は、内容自身からの所産であり、内容が分泌した膠質物であって、内容以外から来たものでもなく、ましてアプリオリに天下って来たものでもない。だから今の場合形式に相当するこの方法や論理、即ち哲学は、内容に相当する処のこの科学そのものからの抽出物[#「からの抽出物」に傍点]として以外に、又それ以上に、その独自性を持つことは出来ない約束なのである。社会乃至歴史科学そのものに対する史的唯物観[#「史的唯物観」に傍点](唯物史観)の一般論や、
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