自然科学そのものに対する自然弁証法[#「自然弁証法」に傍点]は、この意味に於て初めて或る種の独立な抽出物の意義を有ち、その意味に於てであればこそ、その非独自性とその具体化[#「具体化」に傍点]とを科学そのものに向って要求する権利を有っている。初めから抽象的なものは、之を具体化すこと自身、元来抽象的であらざるを得ない。
 哲学を論理に限定して了うことは、哲学の豊富な歴史的な内容を切り棄てて了うものだと人々は考えるかも知れない。だがそれは、哲学を方法として日常使っていない人間の言葉であるばかりでなく、方法乃至論理なるものが実に世界観[#「世界観」に傍点]の歴史的で且つ理論的な要約として結晶したものだ、ということを知らぬ人間の言葉である。科学的内容がまだ直覚的な混沌の内に横たわっている場合が世界観[#「世界観」に傍点]の段階に相応する。之がみずから自分のための形式を分泌形成する時が、論理[#「論理」に傍点]の醸成される時なのである。

 さて学問乃至科学の科学性[#「科学性」に傍点]乃至統一性[#「統一性」に傍点]に就いて述べたが、科学の概念規定をここに止めることは無論出来ない。と云うのは、科学が実在[#「実在」に傍点]に就いての認識であり、そして科学の認識が一定の科学の方法[#「方法」に傍点]によって初めて成り立つという関係を抜きにして、科学の統一性も科学性も、結局無根拠で無内容だからだ。で問題は、「科学と実在」との関係と、「科学の方法」のテーマとへ、移行する。
[#改段]

  二 科学と実在


 仮に、科学は知識の或る一定の集積乃至組織化だと考えておいていいだろう。まず、ではその知識[#「知識」に傍点]とは何かということになる。この問題に就いての近代的な研究の始まりが、J・ロックによって代表されるイギリス経験論と、デカルト及びライプニツによって代表される大陸の合理主義との、対立の内に存することは、広く知られている通りである。尤も近世哲学の特色は色々に説明されているのであって、特にドイツ観念論をそのまま踏襲する今日の多数の哲学者達によると、後にフィヒテやヘーゲルに於て果を結んだ自我の問題こそが、近世哲学の発見した何よりのテーマだというのである。デカルトは普通そうした意味に於ける近世哲学の鼻祖とされている。だが、デカルトが自我の問題に行き当ったのも、実は初めから自我を
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