握の一つの重大特色は、云わば「社会の自然史(博物学)」を与え得るという処に存する。自然科学に於ける進化理論は「自然の自然史」(?)を与えた。マルクス主義的社会歴史理論は、之に準じて[#「準じて」に傍点]、社会の自然史を与えようというのである。併し進化論に準じて[#「準じて」に傍点]歴史的社会を検討するとは何か。夫は、歴史的社会を自然有機体や自然物からの類推[#「類推」に傍点]によって解釈することではなく(そこから各種の社会有機体説や社会ダーウィン主義が発生する*)、人間の歴史的社会を、自然(無機界から有機界への発展を入れて)を基礎とした自然からの発達として記述することなのである。ヘルダーも忘れなかったように、人類社会の歴史は少くとも地球の存在から始まるのである**。自然と歴史的社会とでは無論別な法則が支配する。だがそれにも拘らず、この二つの世界は自然史的発達の過程を介して、同一なのだ。
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* 『ダーウィン主義とマルクス主義』(松本訳)参照。
** von Herder, Ideen zur Geschichte der Menschheit――ヘルダーはカントやビュフォン等と同じく、少なくとも思想としては進化一般の見解に到着している。之に実証的な根拠を与えたのが、C・ダーウィンの理論だった。
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 それ故社会科学に於て正当に使われ得る根本概念=範疇は、自然科学の夫と決して直接に同じでないにも拘らず、一定の約束(云わば飜訳の文法)を介して、相照応せざるを得ないものなのである。私はこの関係を二つの根本概念群の間の共軛関係[#「共軛関係」に傍点](Konjugiertheit)と呼んでもいいと考える*。ブルジョア社会科学乃至歴史科学に於ける立場の無政府的乱立は、夫が自然科学の範疇に対するこの共軛関係を無視する処に原因するものだった。で、もしそうだとすれば、この異った而も発展段階の差を介して同一な共軛的な、社会科学と自然科学との、両者に渡る哲学なるものも亦、当然その範疇を、社会科学と自然科学とに対して共軛にしなければならぬ。唯物論に固有な技術的範疇は、社会科学の範疇と自然科学の範疇とに対して、共軛関係を持つことが出来ればこそ、初めて「技術的」でもあり得たのだった。生産技術[#「生産技術」に傍点]の問題を離れて
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