の通俗ということを感情的に云い表わした一つの表現である限りは、この言葉も亦支配者的観点に立ってしか内容を持たないものである。云うまでもなく之は大衆性とは全く別な規定だ。
大衆化とは併し、科学なら科学という事物を、与えられた多数者[#「多数者」に傍点]の平均水準[#「平均水準」に傍点]にまで近づける(恐らく低めることによって)ことではなくて、却って、与えられた多数者をこの科学にまで近づけるべく(恐らく高めることによって)組織[#「組織」に傍点]することである。大衆化とは多衆[#「多衆」に傍点]を組織化[#「組織化」に傍点]することだ。多数者を大衆にまで組織化すことによって、初めて科学がこの大衆みずからのもの[#「大衆みずからのもの」に傍点]として所有され利用されるということが、科学の大衆化・大衆性の唯一の意味なのである。だから例えばブルジョア科学[#「ブルジョア科学」に傍点]を大衆化すると云ったような言葉は、元来無意味なので、ここから、唯一の大衆的[#「大衆的」に傍点]科学は所謂「プロレタリア科学」の他にはあり得ない、という結論にまで来るのである*。
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* 科学の大衆性に就いては拙著『イデオロギーの論理学』〔前出〕にその項目がある。――なお科学の大衆性に因んで、啓蒙[#「啓蒙」に傍点]という概念を参照して見なくてはならぬ。元来歴史上の用語としては、封建的要素がブルジョア的自由を呼吸することが啓蒙の意味であったが(啓蒙的自由思想家・啓蒙君主・等々)、今日では封建的要素乃至ブルジョア市民的要素がプロレタリア的自由を呼吸するということに、之が転用されていると見ていい。こうなれば科学の大衆化と啓蒙との間には、実質上殆んど何の相違もないことになる。啓蒙とは云うまでもなく、蒙を啓くというような、支配者による被支配者の教育を意味するのではない。恰も科学の大衆化が、無知な庶民に向って知識を与えるためのポピュラリゼーション(通俗化)などとは別であったように。
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科学の大衆性・啓蒙、それから之等と区別された科学の通俗化や卑俗化、の問題に触れたが、最後に、常識[#「常識」に傍点]と科学との関係を明らかにしておかなくてはならない。――古来科学は常識に対立させられて来た。例えばギリシアに於ては、アテナイなどに於けるデモクラ
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