シーにも拘らず、否そのデモクラシーの行きづまり故に、哲学は貴族的にも常識から引き離されねばならぬと主張された(プラトン)。近世に於けるブルジョア・デモクラシーの台頭とその政治的役割の重大化と共に、政治的常識[#「政治的常識」に傍点]としての世論[#「世論」に傍点]は社会に於て可なりの勢力を有つ観念的な力となったが、それにも拘らず科学の専門的[#「専門的」に傍点]知識は、依然として素人[#「素人」に傍点]の常識と対立させられている。――つまりいずれにしても、常識は科学的(即ち専門分科の)知識に較べて、低い至らない不完全な知識だと仮定されているのである*。
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* 常識に関する理論的研究は必ずしも多いとは考えられない。『常識の哲学』(例えばT・リードなど)は社会的意識としての所謂常識の問題を提起しない。この種のものは多く、常識を分析する代りに常識を原理として使用する哲学である(例えば H. F. Link なる人の Philosophie der gesunden Vernunft, 1850 という書物もあるが、矢張りそうだ)。――常識の多少の分析については、拙著『日本イデオロギー論』〔前出〕の該当項参照。
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 だがこうした規定は、必ずしも間違いではないまでも、常識の単に消極的[#「消極的」に傍点]な一面をしか見ない処から生じた偏見であることを免れない。もし本当にそうならば一つの(政治的な)常識である世論などは、専門的な政治学の面前では何等の意味を有ち得ない筈だ。ブルジョア政治家は国務の専門家としての官僚の前に色を失わねばならぬ。――して見ると、常識と呼ばれているものには常識独特の、自律性と権威とがなくてはならぬ筈だろう。之を認めたがらない者がいるとすれば、夫は封建貴族的な科学の占有を望んでいるアカデミシャンの執着からででもあろう。
 科学と常識とは単純に同一平面に於て対立するものではない。まして上下の体統関係に這入っているものでもない。両者は社会に於けるイデオロギーの切断面を異にしている。科学は研究[#「研究」に傍点]を、之に反して常識はクリティシズム[#「クリティシズム」に傍点]を、その切断面としている。一方は結論[#「結論」に傍点]を他方は見識[#「見識」に傍点]を、目指す。科学はアカデミー[#「
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