くというものではない。科学が選ばれた少数の者によって創られ展開されるということは、恐らくいつの世でも当り前のことだ。だが問題はそういう個人の能力如何に関係しているのではなくて、そういう個人が一体どういう社会階級乃至社会身分にぞくするかということにあるのである。科学を所有し従って又之を利用[#「利用」に傍点](みずからのために又他に対する支配のために)する社会層が何か、ということだ。そして夫がいつも政治的な支配権を握った社会層だというのである。ローマ時代には学問奴隷があったように(或る奴隷はホメロスを暗誦させられ他の奴隷はヴェルギリウスに任命される、マルクスやレーニンを引用するように、この奴隷所有者は会話中時々このホメロスやヴェルギリウスに発言を命じる)、又中世貴族が宮廷詩人を召しかかえたように、科学に直接従事するものも一切の階級の内から見出されるのではあるが、併し科学の所有者・占有者はこの「科学者」自身ではなくて、彼等の主人達なのである。
 科学が支配者の占有物だというこの一見非文化的な社会現象は、資本主義の文化に這入っても少しもその本質を改めなかった。資本制によって支配壇上に登場したものは、少数の封建君主・貴族・僧侶達に代った多数[#「多数」に傍点]の市民であったが、併しそれにも増して多数の[#「それにも増して多数の」に傍点]無産者が、依然としてそして又愈々、被支配者の深い層を形成しなければならなかった。之が今日の科学の所謂ブルジョア的階級性に他ならない。――階級的社会支配が存在する限り、科学は支配者の占有物に止まる(少くとも夫が対立科学[#「対立科学」に傍点]―― Oppositionswissenschaft でない限りは)。即ちその限り科学は大衆化されず大衆性を有つことが出来ない。
 だが科学の大衆化・大衆性と云ったが、之は必ずしも科学の通俗化[#「通俗化」に傍点]のことでもなければ、まして又卑俗化[#「卑俗化」に傍点]のことでもない。元来通俗(popular)ということは、支配階級自身を標準として計った社会全般(people)の平均値のことであって、従ってブルジョア社会に於て通俗と呼ばれるものは、実はブルジョアジー自身の通俗性を物語るものに他ならぬ。処がこの支配者層は今も見たように、決して社会大衆[#「大衆」に傍点]ではなかった。――又卑俗ということが、こ
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