な制約は、自然科学に就いては決して見られない処だった。
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* 尤も今日厳重な検閲や統制を加えられるものは、必ずしも所謂「プロレタリア的」社会科学には限らない。ブルジョア自由主義的な理論もその例にもれない。そのことはドイツや日本の今日の文化事情が物語っている。之は資本主義的政治権力が必ずしもブルジョア自身の直接な政治権力を意味するとは限らぬ、ということに平行した現象なのである。
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 自然科学と社会科学とのこの社会的制約に於けるこの種の差異が、夫々の研究対象の差異(自然と歴史的社会との差)に由来することは判り切ったことだ。社会科学ではその研究対象とその研究活動とが同一存在に帰着する。そこで社会科学の研究は一つの循環をなし渦巻きをなして、存在の客観的現実を離れて浮き上がる可能性を有って来るのである。であればこそ、政治権力によって折角科学としての権威[#「権威」に傍点]を付与されていながら、実質に於て何等科学の資格[#「資格」に傍点]を有ち得ないような諸社会科学?(例えばファシズム的・日本主義的・ブルジョア観念論的等々の社会理論?)も、科学に類似した発生をなし得る理由があるのである。――社会科学は著しくイデオロギッシュ[#「イデオロギッシュ」に傍点]になることが出来る。というのは、デマゴギッシュ[#「デマゴギッシュ」に傍点]になることが出来る特権を有っているということだ。
 処で社会科学と自然科学との区別は之で一応いいとして、両者の連絡[#「連絡」に傍点]を与えるものは何か。夫は自然と社会との切り合った処、かの技術的なものの領域である。技術的領域は単にこの二つの科学の共通の研究対象を提供するだけではなく、両者の範疇組織[#「範疇組織」に傍点]の間の媒介をなす機能を持っている。というのはすでに前に述べたように、一切の範疇組織は、それが現実を現実的に処理し得るものであるためには、技術的範疇[#「技術的範疇」に傍点]の性質を持たなければならなかったのだが、その地盤を提供するのが恰もこの技術的領域だったのである。
 だが何と云っても観念は自由である。社会に於ける或る勝手な主観的な、即ち観念的な利害乃至要求は、イデオロギーを或る程度まで自由に強要することが出来る。イデオロギーが又そういう強要によって或る程度まで動かさ
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