た区別は、今云った限りでは単に一応のものでしかない。ただ大切な区別があるとしたら、夫は党派性の方が階級性に較べて遙かに多く政治的活動を示唆する言葉だという点だろう。
[#ここで字下げ終わり]
社会科学は生産関係の内部に関して、重大な利害の関心を有つ処の科学である。この利害がこの科学の出発点を形成すると共に目標を与えるものだとさえいうことが出来る。だがこの事情は、普通ブルジョア社会科学者や平板な常識が想像するように、社会科学の科学としての客観性を否定することを意味するのではない。現実の経済機構が人間の利害関係の組織であることは一つの事実である。そしてこの利害関係を科学的に分析するのが社会科学の第一段階であるということも一つの事実だ。こうした利害関係なるものがいつも科学の客観性と相容れないものでなければならぬと決めてかかることは、一つの先入見でしかない。利害が客観的に分析されることによって、利害でなくなるということは、理解出来ないことだ。問題はただ、主観的[#「主観的」に傍点]な勝手な願望や希望によって利害の客観的な認識が妨害される時に限って起きるのである。利害の客観的な認識が、主観的な利害意識と一致する時、利害[#「利害」に傍点]はそのまま理論的真偽[#「真偽」に傍点]関係に合致するのである。社会科学の真理はこういう事情を伴っているのだ。
社会科学も亦、客観的な歴史的社会的存在の、客観性を持った反映なのだから、自然科学の場合と同じく、矢張り自分自身、独自な科学としての自律性を有っている。そこから社会科学の超イデオロギー性や客観的公正・中立性などが推定される。無論夫でいいのであって、公正でなく主観的で偏頗なものなどは、元来科学ではあり得ない。処がこの客観的で公正で中立で超イデオロギー的・超階級的であることが、実はそのまま階級的対立[#「対立」に傍点]を意味しているのである。と云うのは、対立した二つの科学的理論が、夫々同じく客観的で公正で中道を行くもので階級主観の利害などに従って利害関係の認識を歪めたりはしてはいない、積りでいるのである。――社会科学のこの階級性の故に、今日一般にプロレタリア的社会科学は、云うまでもなくブルジョア政治権力によって検閲[#「検閲」に傍点]や統制[#「統制」に傍点]の外部的な(之こそ外部的な)露骨な干渉を受けねばならない*。このような露骨
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