り、或いは之に集約された限りの前資本主義的諸生産様式のものである。資本制の経済機構[#「資本制の経済機構」に傍点](政治機構其の他は後に見る)がそこで、自然科学にどういう原理的な制約を与えているかを見ねばならぬ。――処が実は、すでに見た生産力の技術性も、それに基く技術学的与件や要求も(交通関係も戦争事情其の他も)、どれも現実的にはこの資本主義的生産機構か、それでなければ、之に対立する社会主義的生産機構かに包摂されて初めて、自然科学に対して一定の規定機能を振うのであった。従って生産力の技術性や技術学それ自身が(交通関係や戦争事情も之に従って)、この生産機構の対立に相応して、根本的な対立を有っていたのである。資本制下の技術(普通そう呼ばれているが正確には他の呼び方が必要だった)と社会主義機構下の夫とでは、その社会的存在事情が非常に異ったものとして見出される。夫だけではなく、技術の発達という観点から云って、根本的に相反した条件におかれていることさえが発見されるのである。
 資本制下に於ては特定の資本主義的要求と与件とに従って(例えば軍需工業の好況などによって)、技術が局部的に他部面を犠牲にして不具的な発達をなす所以を先に述べた。だが、そういう一種の例外にぞくする部面は抜きにして考えると、資本主義下の技術は、資本主義それ自身の発達と共に発達を来したものであるにも拘らず、資本主義自身の発達が自分自身の矛盾の尖鋭化を意味するようになって来ると、その発達が自然に又意識的に、抑制されざるを得なくなって来る。発明・発見の成果は故意に放擲されたり(例えば特許権を独占することによって特許使用を全社会に向って禁止する大産業資本を見よ)、技術そのものの制限さえが提案されたりする(例えば機械の代りに人力を用いて失業救済をしようとする)。技術という観念そのものが不吉なものに思われ始める(技術文明の罪禍!)。技術学的与件と要求とは、だからこの場合著しく制限されざるを得ない。
 それだけではない。利潤追求を終局の目的とする資本主義機構に於ては、技術の発達なるものは実は生産技術の発達のことではなくて、結局は利潤追求の技術[#「利潤追求の技術」に傍点]を高度に合理化すことでしかない。技術学的研究のインスティチュートは、現に多くの場合利潤産出の物的機関としての工場の一部にぞくしている。生産力の技術学的促進
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