之が実は、実証的な自然科学と批判的な所謂哲学とを、バラバラに引き離すことによって、如何に自己撞着に陥っているものであるかに就いては、レーニンが巨細に分析し批判した処である(『唯物論と経験批判論』の全巻を通覧)。
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* 「科学の哲学」に就いては他にE・ゴブロー、G・ミヨ、A・ラランド、L・ブランシュヴィク、L・ヴェーバー、E・ル・ロアや、E・ブトルー、F・ル・ダンテク、E・ピカール、P・デルベ等を挙げることが出来る。後四者を除いては R. Poirier, La Philosophie de la Science (1926) が便利である。なお D. Parodi, La Philosophie contemporaine en France(三宅訳あり)参照。
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 「科学論」(Wissenschaftslehre)――但しフィヒテやB・ボルツァーノやの Wissenschaftslehre(知識学・其の他)のことではない――や「方法論」やその意味での「認識論」や「論理学」は、大抵実証に対立するこの種の批判[#「批判」に傍点]としての哲学の、逃避場であり安息所である。併し注意すべきは、後に見るように、哲学は自然科学に対してよりも、歴史科学乃至社会科学に対しての方が、より円満な関係を維持し易いという点である。所謂精神科学[#「精神科学」に傍点]や文化科学[#「文化科学」に傍点]なるものは処で、本来はこの歴史科学乃至社会科学に帰属すべき筈のものなのだが、併し事実上、或る種の精神科学はそのまま一つの哲学となって現われている(W・ディルタイの世界観学の如き)。精神科学としての哲学はこう主張する、自然科学は対象たる自然について因果的な説明を与えることを目的とする。之に反して精神科学としての哲学は対象を解釈し理解し、意味づけ性格づける。計量的な例の実証的予見の代りに、多少とも云わば神話的とも云うべき卜占・透視(Divination)がなければならぬ*、と。――だがこの考え方の根柢には、哲学の対象が、プロパーな意味に於ける実在=現実的存在ではなくて、第二次的な言わば高次の対象である処の表現[#「表現」に傍点]である、という見地が横たわっていた。歴史的社会的存在はこの哲学の対象となる時、凡て表現という資格を有つので
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