ある。無論表現は之を説明することは出来ない、吾々は之を意味解釈し得るだけである。――処で実は、実証に対立する批判も亦、説明に対立する限りの解釈[#「解釈」に傍点]の一つの場合に他ならなかったのだから、今のこの立場も亦、前の批判主義の立場を一層拡大したものであり、自然科学乃至自然科学に準じる科学と、哲学との距離を、一層広めたものに他ならなかった。
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* W. Dilthey, Gesammelte Werke, Bde. 5. 7. 8 参照。なお『哲学とは何か』(鉄塔書院)中のディルタイからの訳の部分を見よ。
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 この距離を更に徹底的に又妄想的に拡大したものは、知識[#「知識」に傍点]と教え[#「教え」に傍点]又は道[#「道」に傍点]とを対立させる立場である。東洋的倫理や宗教的真理は、自然科学的乃至科学的な「知識」でないばかりでなく、之を絶対的に超越した成層圏的な世界だというのである*。尤もこの種類の哲理観は夫が多少とも文化的な外形を具える必要がある場合には、元来は科学的知識と決して矛盾しないということを強調するのを忘れないが、併しそういう譲歩は、単なるうわの空の儀礼にしか過ぎない。教えや道のためには、場合によっては科学的真理や思考の科学性などは、いつでも犠牲にされて構わないのである。この高遠な哲理は処が、不思議なことには、現代の腐敗しつつある市民社会の最も卑俗な「常識」や、「専門的」哲学者の思想に、甚だよく適合するのである。――こうした深遠にして同時に浅薄な哲理の内に、前に云った科学性=実証性を認めることは無論全く不可能なことで、之が吾々の今の問題の外に逸脱するのは遺憾である。
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* 例えば西晋一郎著『東洋倫理』を見よ。又各種の既成乃至新興宗教や所謂真理運動の類を見よ。――極端な場合として、この教えや道は成層圏的な高みから地上にまで降りて来て、自然科学や社会科学に於ける因果の連鎖に、偶因論の神のような霊妙な干渉を試みる。この教えや道の端くれに触れれば、病人は忽ち治り無産者も一躍金が儲かるという類である。
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 学問のこのような戯画的な分裂と自己崩壊とへ導かれないためには、科学と哲学との間の一種絶対的な対立の代りに、もっと内部的な交渉
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