トの批判主義を、そのまま肯定的なものに逆転すればよい、と考えついた。で批判こそは今や哲学の独立な積極的機能とならねばならぬ。――科学は実在を、之に反して哲学はもはや実在ではなくて価値とか通用性とかいう、二次的な或いは寧ろ高次の、関係か事態を、対象とすると主張する(H・リッケルト、E・ラスク等の範疇論*)。或いはもう少し科学の内容に食い入って、科学の方法・根本概念・前提(予想)を、批判し基礎づけ意味づけることが、哲学の仕事となる(マールブルク学派の範疇論)。
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* この観点は、形而上学を科学から救い出そうとした医者であり哲学者であるH・ロッツェから発する(H. Lotze, Logik)。――なおE・フッセルルの「厳密学としての哲学」の観念は、コントの実証主義の先験化されたものである。
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科学と哲学とのこの種類の関係を想定するものは併しながら、決してドイツの新カント学派ばかりでない。フランスの哲学的伝統の最も有力な一つにぞくする「科学の哲学」者達の多くの者も亦、独特な仕方に於て科学の「批判」を哲学の主要任務に数えている。尤もH・ポアンカレやベルグソン(其の他心理学や生理学や社会学からの例は極めて多い)の例でも明らかであるが、「科学の哲学」者の中には元来が自然科学の世界に於ける専門家の資格を有つものが少なくないから(例えば物理学者のA・レーや化学者のE・メイエルソンなど)、この批判は、自然科学自身にとって、或る場合には大いに役に立つものなのである。事実彼等の哲学は、自然科学自身から出発し、又は自然科学そのものの立場に終始しているように見える。だがそれにも拘らず実は彼等は必ずしも自然科学の本来の立場に止まっているのではない。却っていつの間にか各種の任意の哲学的な世界観(大抵極めて観念論的な)への拡大を企てているのである。でここでも哲学的観点と科学的観点とが必ずしも一致しているとは限らないのである*。処でこの不一致はとりも直さず実証[#「実証」に傍点]と批判[#「批判」に傍点]との間の例のギャップだったのだ。――更に又、実証的[#「実証的」に傍点]な批判主義[#「批判主義」に傍点]とも云うべきものはE・マッハ、アヴェナリウス、ペーツォルト等の経験批判論[#「経験批判論」に傍点](経験的理性の批判)である。
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