ゥ身がまたすでに一つの特殊的な形態であったものとして、より普遍的な形態へと移行することと、従ってそのためにこの法則そのものが他の特殊な形態へと変化[#「変化」に傍点]することとを、除外するものではない。特に社会[#「社会」に傍点]に於ける「歴史的」法則は、今のこの関係を顕著に示している。法則は常に普遍的なものだ。そうでなければ決して法則の名には値いしない。だがそれが生きた法則であるためには、いつも自身が特殊だという自分の影を背負っている。この影を飛び越えることは出来ない。ドイツのロマン派文士シャミッソーは、影のないシュレーミール氏を創造したが、「科学方法論」者や社会科学対自然科学の方法分裂政策家達は、自然科学に向って絶対普遍的[#「絶対普遍的」に傍点]な「法則」を創造して押しつけたのであった。
尤も経験的法則と云えば、つまりは経験の組織体である科学の一認識内容に過ぎないのだが、併しこの法則が根本的な場合になればなる程、即ちこの法則が科学の前進に於て有つ経験指導の指導範囲が広ければ広い程、法則は原則[#「原則」に傍点]に接近する*。原則は殆んど完全に科学そのものを指導するように見える。だから原則はそれ自身方法[#「方法」に傍点]のことであるとも見做されている。因果律(因果法則[#「法則」に傍点])は実は因果原則[#「原則」に傍点]乃至因果性と呼ばれる方が適切だろう。相対性原理[#「原理」に傍点]や不確定性原理[#「原理」に傍点]は、もはやただの経験的法則(Gesetz)ではなくて、こうして諸法則そのものを制定させる処の原則(Prinzip)なのである。
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* H・ポアンカレなども Lois と Principe とを区別する。――なお仮説[#「仮説」に傍点](臆説)という観念(それは経験の一般化的拡大――〔Ge'ne'ralisation〕――と考えられる)は、恰も「経験的」なこの経験が、云わば超経験的なこの法則や原則を生み出すという過程を、多少経験論的[#「経験論的」に傍点]に云い表わしたものである(〔H. Poincare'〕, 〔La Science et l'Hypothe`se〕 参照)。
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原則(原理)と雖も、経験的法則が役づきとなり幹部に昇格したものに他ならなかったから、決して単なる所謂
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