潤vに傍点]をなさねばならぬものである。即ち経験の想定[#「想定」に傍点]であり予想[#「予想」に傍点](Antizipation=Voraussetzung)なのである。ここに経験に於ける超経験的乃至先経験的と呼ばれるモメントが潜んでいる。実は夫は超経験的でも先経験的でもないのであって、全く経験の内部のものにすぎないが、併し大切なのは、この経験が、自分自身を云わば自発的に又自律的に構成して行く組織=メカニズムを持っているということだ。経験の他にアプリオリか何かがあるのではない。知覚乃至感覚が発生する実際上の条件そのものが、この経験組織だったのである(形態心理学に於ける知覚のゲシタルトの理論を見よ)。――で経験のこうしたそれ自身に於ける組織性を用いて、之を目的意識的[#「目的意識的」に傍点]に展開したものが、経験の所謂組織としての科学[#「科学」に傍点]に他ならなかった。
この目的意識は併しどういう方向に向って発動するか。それは経験の整頓から一定の諸法則[#「法則」に傍点]を導くように発動する。法則(経験的法則)は経験の実地的な指導[#「指導」に傍点]のために、常に必要欠くべからざる認識形態なのである。吾々は経験的法則を待たずには一歩も経験を進めることは事実上出来ない。何等かの意味に於て法則を不用なものと考えるのは、必ず経験の実地的な前進を認識目的としない時に限る。例えばだから、事物のただの解釈にとっては、法則などは殆んど全く用がない、夫は例の「構造連関」や「価値への関係づけ」で充分だったわけである*。
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* 法則は公式[#「公式」に傍点]乃至定式[#「定式」に傍点](Formula)として表示される。公式を有たず又公式を利用しないでいい科学は、本来一つも存在し得ない筈である。公式を未知の領域に向って使用する代りに、既知の公式を反覆証明することを、公式主義という。公式主義とはつまり、公式を使用しない[#「使用しない」に傍点]ことを意味すると云ってもいい。
[#ここで字下げ終わり]
法則は併し、云うまでもなく一種の共通性・普遍性(一般性)・反覆可能性を有たざるを得ない。凡そ一般性を全く欠いた事物や事態はあり得ない。だがこのことは、法則がその特殊的な諸形態へ展開[#「展開」に傍点]すること(ただの適用だけではない)と、自分
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