竄ェて経験するだろう処の、否、皆がその条件さえ与えられれば必ず経験する筈である処の、内容であらざるを得ない。で経験はそれ自身に、超経験的な、或いは先経験的な、即ちもはや経験論的[#「論的」に傍点]ではない処の、或るものを含んでいる、ということになる*。
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* カントはそこで経験の根柢に「アプリオリ」を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]入[#「※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]入」に傍点]した。処がE・デュルケムの実証主義は、経験の内からこのアプリオリを導き出して見せる(拙稿「知識社会学の批判」――『イデオロギー概論』〔前出〕の中――参照)。だがアプリオリなるものは、元来二元論用の用語に他ならなかった。
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併しここで、経験の組織[#「組織」に傍点]という点に注目しなければならぬ。組織にとって必要なものは、第一に経験の蓄積[#「蓄積」に傍点]である。処が蓄積はそれまでの経験の保存に俟つ。経験が保存[#「保存」に傍点]されるためには、記憶がそうであるように、夫の一定の整理[#「整理」に傍点]が必要だ。だから一つの新しい経験は、いつも既得の経験の整理された地盤の上でしか受け取られず、又云わばその再整理のためにしか受け取られない。この整理を負担に感じる鈍重下根な意識は、だから新しい経験を恐れ又は排撃する。無論、そうした主体側の用意と活動意識がない時でも、印象は外部から強制的に与えられることもある。だがそれは、そうしたものとしては、単なる雑多な知覚乃至感覚の段階に足踏みする、宿命を持っているだろう。真の経験は、即ち云わば世界を経めぐりつつ生活を験めすというこの人間的過程は、勿論知覚乃至感覚から出発するのであるが、併し単なる知覚[#「知覚」は底本では「知角」]や感覚は、まだ経験という資格を有っていない。雑多な知覚や感覚が整理されてこそ初めて経験だったのだ。
だから、科学が経験の組織だと云ったが、その経験自身が、すでに整頓された組織物でしかない。処でこの経験に於ける組織関係そのものは、夫までの経験による組織であると同時に、即ち経験の所産[#「所産」に傍点]であり結果[#「結果」に傍点]であると同時に、今後の経験の指導的条件[#「指導的条
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