wの性質、特に理論経済学の性質を、一種の「本質学」と見るのだが、処がこの本質は却ってかの「理解」なるものを離れては得られるものではないという。之はM・ヴェーバーの理想型(Idealtypus)にも準ずべき(尤も理想型は経験的な成立を有つ点で之とは異っているが)「本質的定型」なのだ、というのである(『経済学方法論』・改造社版『経済学全集』第五巻)。――だが一般に理解なるものの認識方法としての根本欠陥も、すでに私は述べた。
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社会科学の方法に於ける根本的な――建前から来る――対立は、ブルジョア社会科学一般[#「一般」に傍点]による方法と、プロレタリア的社会科学(マルクス主義社会科学)による方法との、根柢的な対立となって、最も代表的に、そして露骨に、現われる*。尤もすでに先程述べた通り、ブルジョア社会科学の方法は、それ自身甚だ分裂したものだったから、ブルジョア社会科学一般の方法[#「一般の方法」に傍点]というものは、具体的には掴み難いのが事実であるが、併し他方に於て、マルクス主義的社会科学の方法は、殆んど一義的に一致したコースを踏んで発達して来ているので、之に対比して、之と根本的に対立する所以に従って之を一纏めにすることによって、間接にこのブルジョア社会科学の一般的[#「一般的」に傍点]な方法を浮き上らせることが出来るのである。
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* プロレタリア社会科学と呼ばれる意味は、一般に「プロレタリア科学」という言葉に於てと同じく、単にプロレタリアという階級的主観が所有し又は所有し得べき、そしてその階級主観の利害から出発しその利益に奉仕する、社会科学というだけではない。社会科学なるものがプロレタリアの階級主観に立脚する大衆や専門家によって初めて、真の唯一の[#「真の唯一の」に傍点]社会科学となり得るし、又現にそうなっているという、論理的な権利を云い現わす言葉なのである。――ブルジョア社会科学という言葉も亦之に準じて理解される。但しこの場合には、社会科学がブルジョアジーの代弁者によって歪曲[#「歪曲」に傍点]されて、真の社会科学としての科学性を喪失するという、失権の宣言を云い表わすのだが。
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さて、このプロレタリア的・マルクス主義的・社会科学の、一義的な唯一の、即ちそうした意味で客観性
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