用に止まることは許されないので、過去の現象の反省と将来の現象の予知とを俟たなければ、現に与えられた事象自身の認識・利用さえも不可能なのである。だから自然の自然科学的認識は、将来の事情を「予見するために見る」という有能[#「有能」に傍点](有効)さを持っていなくてはならない。実験はそのためにこそ必要だったのだ。もしそうでなければどこに一体実験の必要があるだろう。
この点から見て、自然科学の科学性はその実証性[#「実証性」に傍点]にあると云うことが出来る。之を強調したのはオーギュスト・コントの実証主義であったが、処が彼及び其の後の各種の実証主義は、いずれも一種の現象主義と一種の経験主義(超経験的な経験主義さえ――E・フッセルルの如き)とに結びついているため、そのまま之をここへ持って来ることは出来ない。本当の予見は実証主義[#「実証主義」に傍点]のものではなくて実は唯物論[#「唯物論」に傍点]の特別な能力に俟たねばならないのだが、その唯物論の極めて「自然」的な立場を恰も自分の仮定として想定する自然科学は、その科学性をこの実証性の内に有っているわけなのである。で、自然科学の特徴は押しも押されもしない実証科学[#「実証科学」に傍点]だという処にあったのである。
この実証性――予見するために見る――は自然科学並びに之を公的標準にもつ今日の諸科学を、他の一切の文化形象から区別する。文芸や道徳や宗教(もし宗教も亦文化形態に数えられるならば)が、たとい現実のリアリスティックな材料に基き、又実際問題に一応の解決を与え、又既成の信仰(Positive Religion)をその内容とするにしても、夫は決して予見するために見るという意味で実証的(Positive)なのではない。実証的とは単に事実的ということではなくて、検証[#「検証」に傍点]が可能だということである。処が検証ということは、一定の予見[#「予見」に傍点]を検証すること以外に意味がないのである。――吾々の問題はそこで、こうした実証性を代表する処の自然科学と、他の諸科学(乃至学問)との関係であり、おのずから又科学と哲学との関係となる。
元来が科学は、哲学から分離して来たものであり、元々その一部分であったことに就いて、今更改めて述べる必要はないだろう。例えば十九世紀の後半に至るまで自然科学という言葉と自然哲学という言葉とはあま
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