世の自然科学的精神の台頭と一緒なのである。その意味で初めて実験が近代自然科学の特色をなす。研究手段としての実験に着眼し始めたのは十三世紀に遡る。ロージャー・ベーコンと共に Dietrich von Freiberg や、Petrus Maricourt の名をここに数えることが出来る*。フランシス・ベーコンの実験の提唱は最も有名であるが、併し彼は必ずしも自分で実験をしたのではない。実験の実行に於て誰よりも有力なのはガリレイであったから、自然科学の父はガリレイだと云われることに理由があるのだ。実験を提唱し又みずからそれを或る程度まで試みたものとしては、寧ろフランシス・ベーコンに先立つレオナルド・ダ・ヴィンチを挙げるべきだろう**。尤もアグリコラの技術辞典を私かに利用したかも知れない彼は、自分を勝れた築城家や兵学者として推薦しているように、彼は技術家であって必ずしも近代的な「純粋」な自然科学者ではなかった***。自然科学は技術乃至技術学に基いてしか発達しないのだが、自然科学の例の独立的な権威が、ここでも自然科学の一応の自律性[#「自律性」に傍点]という現象を出現するという事実が、今は大切だ。そこで結局、ガリレイの名とその実験乃至実験的精神とが、自然科学の特色に結びつけられることになるのである。
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* H. Dingler, Das Experiment による。
** W. Frost, Bacon und die Naturphilosophie, S. 220ff. 参照。
*** I. B. Hart, The Great Engineers, p. 37ff. 参照。
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フランシス・ベーコンは実験の一つの意義を説明して、自然を拷問にかけることだと云っている。現代の唯物論にとっては、社会に於ける人間が自然に対する基本的な関係は、自然を搾取することだと考えられている。実験は正に自然からの飽くことのない搾取のために最も根本的な手段の一つだろう。この一見功利的に過ぎるように見える自然観と自然科学観とは併し、実は自然科学の他ならぬ科学性[#「科学性」に傍点]そのものを最もよく見抜いているものなのである。凡ゆる本当の科学にとっては、実在従って又自然は、一つの運動の過程なのである。自然の認識は、現に与えられた自然現象の認識・利
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