た。タレスからアリストテレスに至るギリシア自然哲学の発展も亦、優れた観察と実験との結果を集成する過程であった。中世に於てもアラビアの自然科学(ギリシアの自然哲学とインドからの影響の下に立つ数の科学と)に於てばかりでなく、ヨーロッパの神学者でさえ、観察や実験と無関係に物を云っているのではない。ヴィテロは光学の考察に於て有名であるが、特に実験に注目したと云われるロージャー・ベーコンは十三世紀のフランチスカン派の僧侶だった。――だがそれにも拘らず、中世ヨーロッパの学問は対象を自然に求める代りに之を主として聖書(而も主にそのラテン訳)と註釈書とに求めた。「自然の光明」は「書かれた光明」に光芒を奪われていたのである。物質的生産技術のために自然を大規模に探究する必要を認め得なかった領主的・教権的・封建中世ヨーロッパに、実験という手段が学問の意識的な手段にまで上昇する理由はなかったのである。
 それが所謂ルネサンスとなれば(之は十三世紀から十六世紀まで――ダンテからシェークスピアまでも含むが)、歪曲された聖書解釈と教会の不正なトリック(例えば法皇領の偽証書)との暴露などを通じて、学問はプラトンへ、それから本来のアリストテレスへと、古典復古するわけであり、一般に学芸は神と僧侶領主階級との文化の代りに、自由な人間的文化へと復興するわけである。――処が古典ギリシアそのものにあっても、必ずしも実験(乃至観察)の重大性をハッキリと示すに足るだけの条件は具わっていなかった。観察や実験を少なからず用いるということは、それだけではまだ実験の本当の面目を明示し自覚したことにはならぬ。例えばアリストテレスの『物理学』(フュジカ)は、直接には何等の実験に基いたものでもなく、又直接な自然観察に立脚したものでさえもない。ディルタイなどが強調しているように、之は単に自然の解釈[#「解釈」に傍点]であって、自然の事実に立つ実験的な、従って又因果的な、説明[#「説明」に傍点]ではない。だからこういうものは正当な意味では、近代自然科学から極めて遠いものと云わねばならぬ。彼の動物学的理論になれば観察や実験は大いに利用されているのだが、之は遺憾ながらアリストテレス的学問法の代表的な部分ではなかった。
 実験又従ってその一契機としての観察の、不可避的に重大な意義を知るようになったのは、何と云っても、だから近世であり、近
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