L述)。経済学に於ける古典正統学派(A・スミスやリカード)や歴史学派(シュモラー)、形式主義(C・メンガー)や主観主義(オーストリア学派)、等々の間の対立も亦有名である。其の他其の他。そしてこれ等ブルジョア社会科学と決定的に対立するマルクス主義的史的唯物論。――ここに見られる種類の対立は、夫々の科学が元来その認識目的[#「認識目的」に傍点]を全く異にしていることから来る場合さえ、少なくない。科学の方法が、如何に科学そのものの建前を規定するかが、ここに見られる。夫々の領域について相互に異った立場を取る諸社会科学が、この場合は更に、その建前[#「建前」に傍点]までも異にするようになるわけである。
では社会科学に於て、建前の上から云って相異なるような方法のこの根柢的な相違は、どこに由来するのか。夫は社会科学という科学の、一つの特別な宿命に由来する。この科学そのものが社会の一上部構造・イデオロギーとして、社会の一内容であると同時に、恰もこの社会そのものがこの科学の対象でなくてはならなかったからだ。方法と対象、科学と実在、との間のこういう循環関係[#「循環関係」に傍点]が、一方に於て、この科学の科学としての定着と発達とを歴史的におくらせたと共に、他方に於て、この科学が社会に於ける人間の現実生活の実践的要求の分裂対立に一々照応し得、又しなければならぬ、という結果を産んだのであり、その結果、この科学の建前・方法そのものに、巨細となく社会階級性[#「社会階級性」に傍点]をば持ち込んで来たのである。
尤も科学に何等かの意味に於ける社会階級性が存するという根本関係は、自然科学に就いても別に例外をなすのではない。社会の技術的・経済的・政治的発展の位相に応じて(そして階級性はそういうものの集中的な表現だ)、自然科学の進歩の進度とコースと進歩の手順とが異って来る。例えばニュートンの物理学や之に直接結びついている微積分の方法などは、その最もいい例で、之は一方に於て当時のイングランドとヨーロッパ大陸との技術的水準を反映したものであると共に*、他方に於ては当時の啓蒙思想家や自由思想家・唯物論者の階級的な進歩性に照応するものだった**。――だがそうだからと云って、数学に於ける代数主義[#「代数主義」に傍点]とか微分主義[#「微分主義」に傍点]という方法上[#「方法上」に傍点]の対立が、真面目な意
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