驕B処が解釈はそうした因果関係[#「因果関係」に傍点]を求めることを目的とはしない。その代りに解釈が齎すものは、諸事物の内部相互の間に横たわる構造連関[#「構造連関」に傍点]なのである。因果関係のような機械的関係は、生きた精神、生きた歴史、の認識の方法とはなり得ない。歴史は説明されるべきではなくて解釈されるべきだ、というのである。
因果関係は、云うまでもなく自然科学の認識目的の内容をなす。ディルタイによれば、今日の自然科学は自然を解釈理解するものではなくて、全く之を説明するものである(自然の解釈[#「自然の解釈」に傍点]というものがあるとすれば、夫はアリストテレスの『物理学』のようなものだろう、とディルタイは云っている。ベーコンも亦新しい「自然の解釈」を哲学の根本テーマとした)。――かくてディルタイによれば、自然科学と精神科学とは、その方法に於て、完全に相異り相距たっている。だから例えば、自然科学では真理の一義的な厳密な決定を与えることが出来るに反して、精神科学では高々卜占的[#「卜占的」に傍点](divinatorisch)な予言や推定しか出来ないという。
ディルタイの精神科学の方法論が、今日如何にブルジョア観念哲学の直接の支柱となりつつあるかに就いては、省こう。リッケルト的科学方法論が、一頃、ブルジョア的傾向を持った殆んど総ての科学に侵入したように、ディルタイ的解釈学は、今日の超科学的乃至反科学的形而上学の共通の合理的根拠となっている。――だが今それよりも重大なのは、ディルタイによっても、丁度リッケルトに於てそうだったように、自然科学と精神科学という二つの科学部門が、全く絶対的に対立した二人の他人として提出されているという点である。二つの科学はここでも亦、単に区別・対立させられるだけで、両者間の連関構造は少しも積極的に明らかにされてはいない。ディルタイの精神科学の方法論は、リッケルト等の文化科学の観念が云い表わそうとして云い表わせなかった処を、最もよく又適切に云い表わしているのだったが、それだけに、愈々これ等の科学と自然科学との連絡が、機械的に断ち切られて了っているのである。
で以上見たように、リッケルトの所謂文化科学[#「文化科学」に傍点]の観念を使っても、ディルタイの精神科学[#「精神科学」に傍点]の観念を使っても(ヴントの心理学としての精神科学など
前へ
次へ
全161ページ中74ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング